2016再開祭 | 胸の蝶・廿柒(終)

 

 

水州を出てすぐに濃藍の空から一滴目が鼻先へ落ちて来た。
思わず舌を打ち、周囲の様子を探る。

雨宿りになりそうな軒は疎か、雨を避ける木陰も見当たらん。
羽織った外套から袖を抜き、後を歩く女の頭の上に投げ捨てる。
急に視界を塞がれた女は慌てたよう外套を引き降ろすと、大きな布の隙間から俺に向けて声を上げる。

「駄目です、兄様。寒いですからこれを」
「そう思うなら黙って歩け」
この先にある廃屋を思い出し、一先ず其処までと足を速める。
女は放った外套を引き摺る訳に行かず、かと言って着るつもりもないのか、結局腕の中に丸めて抱いて走り出す。

余計な無駄口を叩かぬのは良い。
それで外套を着れば尚の事良いが、そこまでは無理だろう。
何しろ着る暇も与えずに走り出した。
それでも雨を凌げる軒を手に入れるのが先だ。

廃屋に辿り着く頃には秋霖は強さを増し、夜の山道を霧のように霞ませる。
地を打つ烈しさはなく、かと言って止みそうもなく。今宵は一晩降りそうだ。

駆け込んだ軒下、弾む女の息は、既に薄白の煙のように上る。
一月半前に打たれた秋雨とは違う。
晩秋の悴むような冷雨に変わっている。

「兄様、これ、これを」
並んだ軒の向う、女が胸に抱いた外套を差し出す。
「着ろ」
「だって兄様こそ、そんな恰好では」
「黙って着ろ」

外套を受け取らぬ俺に諦めたのか、着ねば先の話が続かぬと察したのか。
女は大き過ぎる外套に袖を通し、長過ぎる裾を引き摺らぬようたくし上げ、ぎこちない指先で硬い腰帯を結ぶ。

言わねばならぬ事がある。
それを伝えるまでは、凍え死なれるのは勘弁してもらう。
女が外套を着込んだのを確かめて口を開く。
「・・・許すな」

雨音にその声を掻き消す強さはない。
声を引き立てる静けさがあるだけだ。

「絶対に許すな」
「ヒド兄様」

秋霖の軒の雨宿り、互いの間に二尋の距離。

「許されるつもりはない。詫びる気もな。行き掛りで共に帰るだけだ。
さもなくばあの男は、本当に何をするか判らぬ」
「兄様は、私を見ると辛いですか」

お前の事を言っているのに、何故話が摩り替わる。
眉間に皺を寄せ、軒向うを睨む。
霞む雨の先で、女は静かに此方を見詰めていた。

「私は、私を見て辛いと思う兄様を見るのが一番辛いです。
それなら、あのお坊様に斬り殺された方が良いです」
「お前」
「けれど私は死にたくないです。だって死んだら、兄様が辛いでしょう」
「・・・辛くなどない。俺には関わりない」
「嘘です」

俺の何を知って言い切るのか。女はそう言うと笑みを浮かべる。
「辛くないならお一人で帰ったはずです。放っておけばさっきのお坊様は、本当に明後日に再び来たはずです。
斬られればそれでお終いです。そうしたら兄様は、私を置いて行った事をずっと悔やむようになってしまいます。
だから生きたいです。私の為でなく、兄様の為に生きたいです」

女から顔を背け、正面からの雨を顔に受ける。
風と共に横様に軒下まで吹き込んで来る秋霖。

俺の為に生きる事などない。
俺があの弟以外の誰の為にも生きぬように。

俺に気を配る必要などない。
俺が二尋の向こうの気配を気にせぬように。

軒向うで女も顔の向きを変え、夜の中の雨を見る。
俺が見ているものを、己も探そうとでもするように。
そうして無言で並ぶ耳に、小さな囁き声が届いた。

「私の母は、父を置いて出て行きました。祖母は酔って寝ている父の枕元に庖丁を握って座った事があります。
二人とも同じ事を言いました。辛いって。父が他人様を泣かせて、苦しめるのが辛いって。
兄様はそんな家族を救って下さいました。それが私の知る真実です」

違う親に生まれ違う土地に育ち、違う世を見て生きて来た。
互いの間は二尋の距離、共に語りあう思い出すらない。

「ヒド兄様」

オラボニと呼ばれる覚えもなければ価値もない。
それでも灰色の景色の中で耳を打つ声は温かい。

互いに横に一歩寄れば済むのに、決してその距離は詰めぬ。
互いに知っている。無理に寄る事も寄られる事も出来ぬと。
互いに判っている。声に振り向けば全てが変わってしまう。

だから互いに正面を向いたまま、二尋の距離の向うから此方へ腕が伸びて来る。
秋霖の煙雨に冷えた指先を、握り返してやる事は出来ない。
そしてその指の持ち主も、そんな事は百も承知の筈なのだ。

吹く風に舞い上がり、横様に頬を濡らす頼りない雨。
今日の開京の日暮れは早い。
燈籠すら持たぬ外郭の道、周囲には店の一軒もない。
女の足、足元の泥濘、これ以上の帰途はもう無理か。

せめて出立のあの時、馬の一頭も借りるべきだった。
俺の舌打ちに何を勘違いしたか、横の女は済まなそうに雨の中へ白い息を吐いた。

今宵の内に開京に戻らねばならぬ。
あ奴に事の委細を報せ、明日からの事を考えねば。
そしてこれ以上女と遍照を関わらせる訳にいかぬ。
あ奴の為に。そして心ならずも、この女の為に。

俺は途轍もない厄災を、皇宮に運び入れたのかも知れぬ。
王などどうでも良い。但し其処にはヨンとテマンが居る。
「般若」
その呼び声に二尋の向うの影が振り返る。
「はい、ヒド兄様」

ヨン。俺の泣き処であり、弱みでもある。
テマン。一から調息を教え込んだ弟子だ。
これ以上心を揺さぶる弱みを抱えられぬ。

それでも女を見るたび胸の中に蝶の羽音がする。
聞こえるかどうかも曖昧な、一捻りで砕け散りそうな薄羽のさやかな羽音。

この女は蝶に似ている。
晴れた陽の中だけに姿を見せ、花の上を飛び回る蝶。
眼の前に広がる暗い雨夜は全く似合わぬ。

「お前を守る訳にはいかぬ」
「こうして迎えに来て下さっただけで、もう十分です」
「遍照とは関わるな」
「絶対に関わりません。兄様がおっしゃる限り」
「・・・お前を引き入れたのは俺だ」

認めるしかない。遍照もこの女も、引き入れたのは俺だ。
片方が厄災を運び、片方が居場所を失ったなら己で片を付ける。
厄災を運ぶ禍根を断ち、女の居場所を再び手に入れるまで。
「暫し待っていろ」
今宵中に開京に辿り着けるだろうか。
雨に頬を濡らし、暗い夜を見詰める。
「はい、兄様」

何を待つのかすら問わず素直に頷くと、女は俺に笑い掛けた。

 

 

【 2016再開祭 | 胸の蝶 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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