2016再開祭 | 昊天・結篇(終)

 

 

「ヒドさん、本当に大丈夫そう?普段の脈を診てないし、あんな短い視診や問診だけじゃ判断つかなくて」

開京の町を皇宮へと戻る大路、沿って流れる川岸の夏柳が揺れる。
手裏房の酒楼を出てからも心残りな様子で、俺の横で幾度も振り返るこの方の足は遅々として進まない。

「ねえ、今から戻って脈だけでも」
「・・・いえ」

ヒドのあの様子で無理に触れれば、相手がこの方とはいえ一触即発の事態に成り兼ねん。
肩を抱いても熱はなかった。内気を開いて様子を伺う俺にいつもならもっと警戒した筈が。
他の何かに気を取られ、乱れていた。知る限り、憶えている限り今まで一度も無い程に。

いつも冷徹なヒドが、あれ程狼狽えた理由は何だ。
ただマンボの拵えた冷麺を喰い、夏草刈りに出ようとしただけで。
この方の素足の無礼はあったとしても、この背で覆い隠していた。奴の目には触れていない筈だ。

この方がポソンを脱いだ時、ヒドは呆れてはいたが怒ってはいない。
ならば最後に触れた奴の肩があれ程強張っていたのは何故だ。

昨日今日の付き合いではない。
今は亡き隊長を頼って父上の逝去後赤月隊に合流して以来、もう数える事もない程の年月を経た。
俺達は互いに陰陽のように、相手の肚が手に取るように通じ合った。
赤月隊の仲間が全て逝った後は、互いが居なければ存在出来ん程に。

井戸底の奴の昏い目も、俺の身の凍る寒さも、互いに痛い程判った。
判っているから何も出来ずに、言葉どころか傷を癒す指さえ差し伸べられずに。
見られたくないと判っているから、見えない振りで視線を逸らした。

なのに今、奴の肚裡が見えない。見ない振りではなく見えない。
確かに何かが変わっていると判るのに、それが何かが判らない。
こんな事は初めてだ。だから対処の仕方が思い浮かばない。

「何かあればテマンが」
「うん。くれぐれも言っておいて。頭痛、吐き気、湿疹や痒み、息が苦しそうだったらすぐに呼んでって。
標治は速度が肝心だし、ソバは怖いのよ。重篤なアナフィラキシーショックが起こる可能性もある。
通常はアレルゲン摂取直後に起きるから、今の時点で自覚症状がないならそんな重症になるとは思えないけど」

この方は悔いるように唇を噛み、もう一度酒楼の方向を振り返る。
「マンボ姐さんには事前に確かめてみたんだけど。手裏房でもおソバは食べてるって聞いたし。
誰も気分が悪くなった事はないって聞いたから安心してたの。でも診察なしでは判断は出来ない」
「蕎麦ではありません」
「そうなの?」
「はい」

断言する俺を不思議そうに見上げる瞳に頷く。それは間違いない。乱れていたのは気で、水血ではない。
息が乱れているでも熱があるでも無く、今この方の心配する症には何一つ当て嵌らん。
体の不調でなく、俺にも話せず、この方を邪険に扱い遠ざける理由。
あのヒドが俺にすら言わぬ話をテマンにするとは思えない。
共に過ごし、卓を囲み、心を開きかけたと安堵した矢先に突然顔色を変えた理由。

「何でもないなら良いんだけど」

・・・まさか有る訳が無い。見当違いの悋気は揉め事の火種になる。
何でもない。それなら良い。正にこの方の言葉通り。

東屋で浮かべていた汗も、朱かった頬も、今はすっかり治まっている。
呟いた横顔にかかる、白い初夏の陽射しに金茶に透ける髪。
長く下ろした柔らかなその髪を、涼やかな夏の風が揺らす。
「心配だわ。なるべく早く、テマンに行ってもらってね?」

心配だと繰り返さないで欲しい。この胸裡に余計な雲が湧かぬよう。
横のこの方に頷いて、顎を上げて頭上を仰ぐ。

見渡す限り雲一つない夏色の昊天。何かが起こる訳が無い。
例え天地は返っても、ヒドと俺の間で裏切りだけは有り得ない。

「草刈りは俺が」
「面倒かけたくない。それにヒドさんに頼みたいの。ヒドさんも外に出るチャンスだし、何しろ草刈りの腕は一流だし」
心地良さげに髪を靡かせ、思い出し笑いを浮かべる横顔。
その笑顔を浮かべさせる相手に悋気を抱くべきではない。
楽し気に笑っているあなたに腹を立てるべきでもない。
判っているのに、何故これ程に。

「ヨンア、大丈夫?」
昊天を見上げたままの俺に掛かる声。誰より信じる二人。誰一人疑うべき者などおらんのに。

なのにはいと頷くだけが何故、これ程までに難しいのだろう。

誰とも違う。
迂達赤も禁軍も官軍も国境隊も、手裏房も典医寺の奴らも皆この方を慕ってはいるが、それとは違う。
吹く風に髪を弄られながら心裡で繰り返す。
考え過ぎだ。この方が絡むと見境が無くなるのは悪い癖だ。
それでもヒドが最後に口を噤んだのが気に掛かる。

無口なのは重々知っている。だが疚しい事がないなら言えば良い。
お前の女になど興味もなく気にも掛けていないと怒鳴ればそれで。

有り得ないと打ち消す端から黒雲が湧く。
俺のよく知るヒドであれば、迷うことなくそうした筈だ。

何かが変わって来ている。確実に、俺も気付かぬうちに。

薄笑いを浮かべて人を斬るヒドも理解できたのに、今はその肚裡が読めない。

変わって欲しいと望んだ。俺がこの方によって変わったように。
闇の底から出で、明るい光の下を生きて欲しい。生きて良いんだと。
そうなったのなら嬉しい。ただその理由が、導いた手が、もしも俺と同じなら。

気付いたら声を探し、姿を眸で追い、心が先に駆け出していたら。

下らぬ思いを振り切るように昊天を見上げた眸を逸らし、そのまま横のこの方を見る。
「・・・ヨンア?」

白い陽射しと風の中に届く声。舞う長い髪。迷いのない鳶色の瞳。
無言で小さな掌を握れば、この指の間に細い指がくぐる。
「帰りましょう」
「うん」
こうして繋がる指先に何一つ嘘はない。

嫌な予感が的中したら。その時俺は、どうすれば良いだろう。
考えるのは性に合わんが、チュンソクに投げる訳にもいかん。

歩き始めた昊天の下、風は大路を吹き抜ける。
どうせなら立っていられぬ程強く吹けば良い。
そうすればあなたを腕に抱き、護る名分が出来るのに。

手を離さず歩く俺に、弾むように添って歩くこの方だけが嬉し気だ。
悩んで欲しくない。考えて欲しくない。あなたのままで居て欲しい。

それだけを願う端から、心に重い雷鳴が轟く。
あなたがあなたのまま居る事が、多くの者を惹きつける。
この方を涼ませ、俺の胸を乱す風の中を歩く。

口にする事は出来ず、打ち消すにも確証が足りん。成り行きに任せるしかないか。いつか全てが判るまで。
横を見れば其処にある瞳。確かめれば必ず視線が合う。唯でさえ歩き方が下手な方なのに、脇見は危ない。
「きちんと前を」

空いた片手で小さな頭を掴み前へ向ければ、白い頬を膨らませて。
「だってあなたから手をつないでくれるなんて、めったにないもの。
もったいないから見てるのよ。どんな顔してるのかなーって」

言った傍からまた此方を見て、心配そうな声が問う。
「でもあんまり嬉しくなさそう。私、心配かけすぎちゃった?」
「・・・心配」
「ヒドさんのこと。騒ぎすぎちゃったかもしれないけど」
「判っております」

医に関しては無駄に騒ぎ立てる方ではない。騒ぐならば理由がある。
「じゃあ良かった。運動誘発アナフィラキシーっていうのもあるから、念のため明日いっぱいまで、激しい運動は控えてもらえたら安心」
「テマンに伝えさせます」
「うん、お願いね」

繋いだ手を大きく振りながら、あなたは屈託なく笑う。
「草刈り、いつにしようか?本格的に暑くなって来る前に、なるべく早く済ませたいけど」
その日だけは是が非でも体を空けねばなるまい。
疑うからでなく、この心裡の黒雲を晴らす為に。

ヒド、誰を疑おうとお前を疑う事はない。お前がそうせんように。
「確かめておきます」
「え?ヨンアは良いのよ、忙しいのは知ってるし、面倒かけたくないって言っ」
「必ず」

その声を断ち切るように口を挟む。
これ以上聞きたくない。疑う必要のない相手を疑いたくない。
ただ見たい。そして知りたい。今何が起きているのか正しく。
俺が、ヒドが、そして俺達二人がこの先どう変わって行くかを。

「参ります」
風が乱した金茶の髪が半分隠した瞳。その前髪をこの指で白い額へと梳きつける。

瞳を覗き込み断言すると、一人暢気なあなたも圧された様子でようやく黙って頷いた。

 

 

【 2016 再開祭 | 昊天 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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