吹いて行く風に紛れて静かに息をする。
ヒドヒョンに習った通り深くいっぱい腹にためるように吸って、細く細く平らに吐いて。
ヒドヒョンはいつも言う。
調息の最中、余計な事は一切考えるな。
だけど考えずにはいられない。こうして気配を消していても。
必要ない俺が出しゃばって悪かったな。
だけど大護軍と医仙が必要だって言ってくれるなら、俺は何でもやる。
たとえお前が必要ないって思っても、そんなこと構うもんか。
そんな嫌な雑念が息と一緒に胸の中から全部出て行くように。
吸って、吐いて。吸って、吐いて。吸って、吐いて。
息に集中しているうちに頭の中が空っぽになって行くように。
「て、てま・・・」
ようやく空っぽになりかけたところで、切れ切れの声に邪魔される。
春とはいえ、昼になればあったかい。
真上に上がった太陽の下、額に汗の粒を浮かべて、肩で息をしながらトクマンが呼んだ。
「おい・・・テマナもやれよ。二人で挟み撃ちにするとか、何か」
愚痴る奴の指先から、握り締めたまま出番のない縄の先がだらりと地面に垂れている。
「そんなことしたら、鹿が弱ってかわいそうだ」
「だからって寝転がってても何も解決しないだろ!さっきから」
トクマンは柵で囲った緑の原っぱの端っこ、寝っ転がった俺のとこまで怒ったみたいな足取りで近寄って来た。
「来るなよ」
「お前が何もしないからだろう!」
「大声出すな、鹿が驚くだろ」
こいつには見えてない。追い駆けるほど、鹿はどんどん離れてく。
当たり前だ。見たこともない男がいきなり縄張りで大騒ぎすれば。
逆に寝っ転がったままの俺のまわり、鹿はさっきより近くまでやって来て、足元の草をゆっくり食むようになった。
その鹿たちを驚かせないように、寝っ転がった草の中に身をひそめて心の中で話しかける。
敵じゃないぞ。お前達を喰ったりしない。
ただその頭の角を少しだけ分けてほしいんだ。
鹿の角は、伸びすぎた猫の爪とおんなじだ。
放っておいても、自然とはがれ落ちるようになってる。
同じだから切っても痛くないけど、それほど伸びてない爪を無理に押さえて切られるのは誰だっていやだよな。
だけど大護軍が欲しいんだ。医仙に必要なんだ。だから少しだけ。
動こうとせず目を閉じ直す俺の耳。
トクマンの呆れたような溜息と、もう一度草を踏んで走り出す足音が聞こえた。
*****
あいつ、なにしてるの。
緑の丘の草の上、ごろりと寝転がったままのテマンを指さして訊くと
「うーん。自然と一体化してる、とか?」
私の指にウンスが困ったみたいに苦笑いして言った。
「テマナのことだもの、きっと考えがあるのよ。山や動物には誰より詳しいから大丈夫」
ただ寝転がってるみたいに見える。
だけどウンスの言う通り、あいつのやることはいつでも正しい。
さっきからこうして離れて、柵の外から見ているから分かる。
鹿が少しずつ寝転がるあいつの近くに寄って行っていること。
だけど私には、それも時間の無駄に思える。
ここは牛黄を取ったり鹿茸を取ったりするための御料牧場。
王様や王妃様に出す薬や薬食の肉を取るための動物を育てている場所だ。
きちんとした牛や鹿から生薬や肉を取っていると証明する場所だし、そんな牛や鹿を育てて生薬や肉を取る専門の厨番もいる。
その人たちに頼めば確実に鹿茸を取ってもらえるのに、わざわざ仲間まで連れて来て自分で苦労しようとするのが分からない。
いくらあいつの大好きな大護軍が頼んだからって、何でも素直に聞き過ぎるんじゃないだろうか。
私が言うことには怒るのに。
私よりあの大護軍の方が大切で、私より好きってことなんだろうか。
「トギ」
だいたい何を言われても、まず考えるのも大切なんじゃないのか。
ウンスのことは心配だし大好きだけど、私はウンスの言葉を鵜呑みにして従ったりはしない。
「・・・トギー?」
人間だ。疲れてれば判断を間違う事もあるし、典医寺での間違いは命に関わる大ごとになる。
それに薬湯や薬剤なら、今でもウンスより私の方が詳しい。
何でも話してもっと良い薬を見つける。お互い知識を持ち寄って患者に苦労させないように。
少しでも早く楽になる治療、少しでも体に負担をかけずに効く薬。
それを見つけるために、どれだけ忙しくてもいつも話し合ってるのが私たちだから。
なのにあいつはそれがよっぽど気に入らないみたいだ。
不思議に思っていつものとおり、ウンスに確かめてるだけなのに。
足元に転がってる小さな石をにらみつける。
思いきり蹴り飛ばしたら、寝転がってるあいつに当たるだろうか。
自分は聞いてればいい。私より大切な大護軍の言葉を何でもうんうん聞いて、それに従ってればいいんだ。
私はそんなことはしない。 納得できるまで確かめたいし、自分の知識もちゃんと分け合いたい。
「トギ、聞いてる?」
上衣の袖を引っ張られて地面の石から顔を上げると、心配そうに私を見てるウンスと目が合った。
「大丈夫?疲れちゃった?」
そんなことない、考え事をしていただけ。
指で答えてもウンスはまだ心配そうに、私と、丘に寝転がるあいつを順々に見た。
「テマンとケンカしたのは、私の頼みごとのせい?」
そうじゃない!
慌てて首を振るのに、ウンスは悲しそうにも困ったようにも見える顔で俯いてしまう。
こんな風に子供みたいな人だから、悩ませたくないと思う。
だからこっちの思ってる事をきちんと伝えて、ウンスの考えてる事もきちんと聞きたいと思う。
チャン先生の時からそう教わった。
相手の言葉も聞いて、自分の言葉も伝えなさい。
そんな私のやり方が気に入らないなら仕方ない。だけどずっと友達だった。初めて典医寺で会った時から。
私は会った時からあの子を友達だと思ってた。
あの子がまだ小さくて、山から連れて来られたばかりで、開京に全然慣れていない時から。
あの子のつっかえる声と私の指の声は、不思議なくらい通じ合った。
薬草しか知らなかった私。山しか知らなかったあの子。
もう十年もそうやってお互いを知っている。
だから私が薬草や薬湯をどんな気持ちで作ってるか、誰より分かってくれてると思ってたのに。
石を蹴るのはやっぱりやめよう。
分かってもらえなくても、私のやり方が気に入らなくても、やっぱり傷つけたり痛い思いはして欲しくないから。
爪先で小石の代わりに地面を蹴って、私は離れた牧草の間に寝転がるテマンをじっと見た。
皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。
コメントを残す