叔母上は覗き込んでいた白い箱の前から私の座る卓前まで歩くと、改めてその床へ腰を降ろした。
「ソナは暮らし始めて、すぐにこっちに馴染んだわ。父はあの子の献身的な看病で大往生した。
最後に病院であの子の手を握って、ありがとうって言ってね。それでもソナはこっちに残った。
叔母さんと一緒にいてもいい?って言ってくれたわ。私が1人きりになって淋しい事、判ってくれてたの。
帰っても良かったのに。馬鹿な子よ。人の事ばっかり」
「馬鹿ではない。優しい方です」
私の声に幾度も頷き
「お兄ちゃんは韓国に来るたんび、いろいろ戸惑ってた。今日のあなたたちみたいに。
食事、お金、スーパーの買い物、そんなものに。ソナがいちいち教えてあげてた。
お金の数え方にハングルの読み方。それに夜中のジャジャミョンの、出前の注文の仕方まで」
「よく判ります」
実感の籠った私の声に、叔母殿は小さく噴き出した。
「それでもお兄ちゃんは来るたびにレンタカーを借りてね。
ソナを気分転換に連れ出して、ここにいる間は絶対に離れずにいつだって横にいたのよ。
ソナがハングルでカーナビ入力して、韓国語の案内が面白いって2人大笑いしてた。
お兄ちゃんは運転中に、ソナに何度も、ノド乾かないか、トイレはって聞いては嫌がられて。
ずっとちっちゃな妹のまんまだったのよ、ソナは」
伺っただけで兄妹のその光景が目に浮かび、私はゆっくり頷いた。
「兄妹は、そういうものなのでしょう」
「そうね。そうだと思うわ。ほんとにね」
叔母殿は其処まで言うと、泣き笑いで深く頷く。
「そうやって何度も行き来して、慣れてるはずだったのよ。アメリカも韓国も車は左ハンドルだし、右側通行だし。
お兄ちゃんが、あの子が慣れてなかったのは、韓国ドライバーが時々馬鹿みたいな飲酒運転をするって悪習」
「は」
「運転代行がここまで一般化してるのに、それを頼まない奴がいるって事を、お兄ちゃんは知らなかったの」
「意味が・・・」
「今年の頭よ。最後にお兄ちゃんが来たのは。
いつもの通りここに泊まって、夕方に行って来るね、って2人でご飯を食べに出掛けた帰り道。
お兄ちゃんの運転してた車に、酒酔い運転の車が正面衝突したの」
叔母殿の声を震わせるのは今も癒されぬ怒りか、それとも悲しみか。
「連絡を受けても、アメリカにいる姉夫婦はどうしようもなかった。泣きながら飛行機のチケットを取る以外にはね。
私が連絡を受けて病院に駆け付けた時、ソナは血だらけの服のまんまで手術室の前のソファーに一人で座ってたわ。
あの子まで重傷かって、恐ろしかった」
幾度も見た。この目で私自身が。
患者を救えず治療部屋を出る度、部屋前に立ち尽くす誰かに伝えねばならない。
隊長にも、副隊長にも、幾度そうして詫びただろう。
幸いなのは王様や王妃媽媽にそんな事が起きていない、それだけだ。
自分の力の無さに打ちひしがれ、頭を下げ通り過ぎる。私は医官としてそうして部屋を出て行く。
ソナ殿は患者の家族として外で待っていた。何方の気持ちもよく判る。まるで自分の事のように。
静まり返った廊下。治療部屋から漏れる消し忘れた蝋燭の焔は、その瞬間に弔いの灯となる。
伝えねばならぬ声、落ちる誰かの涙、重すぎる溜息。
皆が深い悔いの中にいる。あの時ああすれば良かった、こう言えば良かった。
全てが終わり今更刻を戻す事も叶わなくなってから、悔いばかりが頭を過る。
「ソナ殿も、怪我を負われていたのですか」
「違う。ソジュン・・・お兄ちゃんの血だった。私が名前を呼んだらあの子は顔を上げた。
お兄ちゃんが庇ってくれた、ぶつかる直前にハンドルを離して、体ごと乗り出してあの子を抱き締めたんだって」
「・・・そうでしたか」
「ソナ大丈夫だぞ、大丈夫だぞって繰り返し言ったそうよ。車内で2人が救出されるまで、意識がある間はずっと」
兄妹とは、そういうものなのだろう。
そして命の火が消えつつある兄の腕の中で、それを聞き続けた妹の心の傷は。
「手術室から出て来た時には、ソジュンはもう冷たかったわ」
「はい」
「ソナがあんなに叫んだのも泣いたのも、見たのは初めてだった。父の時は黙って静かに手を握り返して、ただ泣いてたけど」
「はい」
備えられる別れなど無い。
それでも緩やかにその時を迎えるのと、引き裂かれるように迎えるのでは受け止め方が全く違う。
私達の高麗の果てにこの天界があろうと、永遠の命は無いのだ。
それを迎えた時に悲しむのは、どれ程時が移ろうとも変わらない。
「その壁の写真」
叔母殿に指差された先の、美しい青い海と空の絵。
「カメラ好きのお兄ちゃんがソナの為に撮影したの。あの子たちの家の近くのビーチ。
小さい時から遊んでた場所なんですって」
「思い出の海ですか」
「そう。それから、テーブルの上の写真はね」
卓上の掌ほどの絵に目を移し、叔母殿は悲しく微笑んだ。
「最後の日、ソジュンに教わりながらソナが撮ったの。良く撮れたでしょって、すぐポストカードプリントしてね。
2人でそれを入れる、そのフレームも買ったの」
そう言われ、改めてその絵の中の男性の顔を眺める。
光の中で透き通る程に美しい笑顔。誠実そうな真直ぐな瞳。
今にもその口が動き、ソナ殿の名を呼ぶ声が聞こえそうだ。そう見えるのは彼に訪れた悲劇を先に伺ったからだろうか。
その笑顔は私の知る誰かに、とてもよく似ている気がした。
「あの子がしたい事は何でも助ける。だから連れて来たわ。これ以上知らずにソナに何か言われると困るから話したの。
チュンソクさんには言わないで。もちろんソナにもね」
「絶対に」
言わない。言えない。命の終わりを口にしても許されるのは、遺された家族だけだ。
他者が口を挟む事は許されぬ疵がある。誰の心の中にも。
叔母殿の声に、私は一度だけ確りと頷いた。

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