2016再開祭 | 秋茜・拾捌

 

 

仕切り戸の向こうは早い秋の夕暮れ。
部屋中に淡々とした影を落とす光の中で、その女は頷いた。
「そんな事はとうに知ってるわよ。だから麻黄湯も粥も」

賢そうな奴ほど実は馬鹿だ。
いや。馬鹿なのではなく、知り尽くしていると本人は思い込んでいる男の心を、実は全く知らぬ。
この意地張りな女人は、きっと敢えて知りたくなかったのか。
周囲は全員敵だと、そう思う事で生きて来られたのかもしれぬ。

それでもお前の敵ではない男も、稀にいるのだと知ってほしい。
お前はそうして大切に扱われるべき女人だと思ってほしい。
一歩ずつで良い。互いにゆっくりと歩み寄ろう。

俺が熱がある時にはお前に傍にいてほしい。
心の鎧を脱ぐのは俺の前だけにしてほしい。

あんな夢をみたせいか。
抱き締めて一晩眠れば、本当に明日は全て良くなっているように思えて来る。
それでもさすがにそれは余りにも早過ぎる。一歩ずつで良い。
お前が気紛れな猫のように布団に忍び込んで来るのではなく、俺から覚悟して招き入れるには早過ぎる。

だから今はせめてと、ソヨンの膝の粥の椀を奪う。
「喰ったらもうひと眠りする」
「もう寒くない?大丈夫?」

何処まで判っていて聞くのだろうか。その声に
「ああ、寒くない」
首を振り、椀の粥を掬って口へ詰め込む。これ以上おかしな事を口走らぬように。
「良かった。寝る前にもう一度、薬湯を飲んで」

粥をひと匙口にしただけで、ソヨンの顔が明るく晴れる。
俺の額に手を当て、安堵の息を吐く顔が目の前にある。
「ソヨン」
「何」
「良くなったら、市にでも行くか」
「市に、何しに」
「漢城に来て以来、買い物一つしておらぬだろう」

あの頃お前の飾った宝玉程に、立派な石は買えぬとしても。
あの頃の、毒々しい程に赤い紅を差して欲しくはなくとも。
もう身を隠す必要などない。お前らしくいても良いのだ。
もしそれを許さぬ者がいれば、その時は俺がお前を守る。

「何か買いたいの?」
「紅か、簪か」
「ソンジン・・・」

何故かソヨンは低く呼び、黒い瞳で胡乱気にこの顔を見た。
「あんた、そういう好みだったの」
「何が」
「言ってくれれば、私の簪や紅を、いくらでも譲ったのに」
「・・・本気で言っておるか」
「だって欲しいんでしょう。待って、捨てられずに持って来た物がある筈」

膝の椀を引き受けた分身軽になったソヨンが、急いだ様子で腰を上げた。
椀を枕元の床に置き、慌ててその手を掴む。
「やはり馬鹿だな」
「し、つ礼ね、ちょっと放しなさいよ」

女の細腕で一体何が出来ると言うのか。
そうして振り回した処で振りほどくどころか、緩ませる事も出来ぬのに。
「ソヨナ」
「・・・何」
「秋茜は何に効く」
「え」
「薬なのだろう」
「明では食べてたんですって。引きつけに効くけれど下品よ。大量に必要だし、もっと効く薬草があるし・・・」

心を寄せる女の手を握り、初めて交わすのが蜻蛉の話か。
「明」
聞き慣れぬ名に、曖昧に頷いて繰り返す。

そうだ。あの頃元と呼ばれた宗主国は、今の朝鮮をも我が物顔で牛耳っている。
生まれ育った祖国でないと云え、守ると誓った王が治める、想う女が暮らす国。
あの頃モンケが劉先生を追い回したように、今は王が相変わらず無理難題を突きつけられている。
想う女はこの国の身分の区別に苦しめられ、雁字搦めの柵の中に無理矢理に閉じ込められている。

人を人と見ず、扱わず。どれ程才覚があるかは問題ではない。
朝鮮は金の座布団に生まれ落ちるか、藁の上に生まれ落ちるかで一生が決まるらしい。
金の座布団に落ちた愚鈍な男が、藁に落ちた才覚ある女より常に正しいと言うのなら。

ならば俺は剣を握る。己の信じる正道が歪まぬように。敵がいる限り倒して進むまで。
いつの日か先生に、そしてウンスに再び逢う日に胸を張れるよう真直ぐに生きるまで。

ソヨン、お前が道を諦めぬよう。上げるべき声を上げられるよう。

「ソンジン」
的外れの探し物を諫めようと手を握ったままのソヨンは、向き合ったまま何故か空いた手の指先を上げ、俺の眉を撫でた。

ウンス。お前が不思議な医術で塞いだ、河原で負った創の上。

その指先に息が止まる。黒い瞳、呼び掛ける声。
目立ったのか。しかし創が癒えてから相当な刻が経っている。
それでも偶さかだ。そうに違いない。
頬に触れようとしたか、額の熱を計ろうとしたか。手元が狂う事も充分に考えられる。

お前がここにいる筈がない。俺の両手が押したのだ。愛しい男の許へ戻れと。
ソヨンに想いを寄せたのは、お前と間違えているからではない。
そうであれば初めから、寧ろずっと楽だった。それなのに。

「ありがとう」

その声に何故これ程眸の奥が痛むのか。心が叫ぶのか。
ソヨン、お前は今一体何に礼を言っているのか。
どうしてこれ程遠回りをしたのか。何故心に従わなかったのか。

先刻までの風邪の悪寒とは違う、熱い寒気が背筋を駆け上る。

お前は初めからここにいた。俺を守り続けて来た。
あの丘で瀕死の俺を拾い、傷を癒し、妓房であれこれ世話を焼き、遥々漢城まで連れて来た。
パク・ウォンジュンと俺を繋ぎ、晋城大君媽媽との縁を結ばせ、身を賭しその王位を救った。
いや、救ったのは王ではない。
あの時お前は叫んだ。 生きたい処で生きなさい、ソンジンと。

お前はお前だ。他の誰でもない。
ソヨン、そしてお前こそが探し求めた唯一人の女人。
こうして触れられた今、その指先から全てが伝わる。

「ソヨン」
「うん」
「ソヨン」
「・・・うん、何」

ただ繰り返し呼ぶ声に、どうして良いか判らぬ顔のまま黒い瞳が俺を見る。
二人立ち尽くす狭い庵の部屋。格子扉から差し込む夕陽。
もうすぐ長い秋の夜が訪れる。けれどその外はまだ淡く明るい。

「・・・ソヨナ」

茫然と呼び続ける俺に扉越しの夕陽の中、お前は困ったよう笑って頷いた。

 

 

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