2016 再開祭 | 桃李成蹊・29

 

 

大きな台風が海のすぐ向こうで暴れてるニュース。
そのまままっすぐ韓国の南にぶつかるって心配な天気予報が、朝からしきりに流れてる。

飛行機から降りて家に直帰したヨンさんは疲れて落ちくぼんだ目をして、それでも心配そうにもっと疲れた顔色のウンスさんを見た。
「暫し仮寝を」

それ以上有無を言わせず、ウンスさんのショルダーバッグをがっしり掴むと肩から奪う。
そして背中を優しく押すようにベッドルームへ連れて行く。
扉を開けるとエスコートするように部屋の中に入り、すぐにヨンさん1人だけが出て来た。

「えーと、タイミング逃した。お帰りなさい」
すごいバツの悪さだ。社長は朝早くからオフィスに行ってて留守。
チーフマネはヨンさんたちを玄関まで送ると、そのままとんぼ返りでオフィスに向かった。
たまたまリビングで台風のニュースをボケっと見てた俺が1人で、ヨンさんとウンスさんを迎える事になった。

この人が大切にしてる事は判ってた。愛してるんだなって思ってた。
だけどあんなに心配そうな顔をするなんて思ってもみなかった。
そんなシーンを眼の前で見せられて黙ってるのも気まずくて、俺はどうにか声を絞り出す。
「寝れなかったんですか?機内で」
「薬を盛られた」
「薬?盛られた?」

ヨンさんの物騒な言い方に、思わず驚いてその顔を見る。
大した意味はないのか、ヨンさんは横顔で笑いながらキッチンへ歩いて行って、そこから俺を振り返る。
「水を貰う」
「水でいいの?コーヒーもお茶も、良かったらビールでも何でも」
「いや」

冷蔵庫のドアを開けるとミネラルウォーターのボトルを取り出して、ヨンさんが俺に目で問い掛ける。
グリーンのボトルだからか。それでもラベルが英語だからか。
これでいいのか、これは水かって聞くみたいに傾げた首。
「水です」

保証する声に安心したみたいに顎の先で頷くと、ヨンさんは素早く部屋に戻って行く。
今度はしばらく出て来ない。きっとウンスさんに水を渡して、2人で何か話してるんだろう。

羨ましさに少しだけ胸が痛い。そんな風に相手を心配する事。心配で、だから側から離れたくない事。
そしてウンスさんの事だから、きっとヨンさんに少し寝ろとか体は大丈夫かとか、あれこれ質問攻めにしてるに違いない。
俺の事ですらあれ程気にしてくれる良いドクターだから、ヨンさんの事なら大切で気になって仕方ないはずだ。

行方不明になったウンスさん。戻って来たと取り下げられた捜索願。
鎧姿で居合わせた男を刀で斬りつけた誘拐犯。
爆発現場に残っていたっていう、落雷の痕跡。

雷が何なのか、そこだけが判らない。だけど残りのヒントの山は俺のよく知る人を示してる。
リビングの窓の外、分厚いこの窓ガラスさえ揺らす程の強い風。
台風はソウルから遠いはずなのにその風は強烈な唸りを上げて、まるで渦を巻いているみたいだ。

部屋から出て来たヨンさんが背中で静かにドアを閉めると、ほっとしたみたいに息を吐く。
そしてそのままリビングを横切って、点けっぱなしのTVを覗き込む。
「・・・何処だ」

TV画面を確かめて、映った景色に俺は答える。
「済州島だ。台風が近いって」
「済州」
「今、日本から北上してる。ギリギリ帰って来られて良かったです。半日ずれてたら、フライトキャンセルになったかも知れない」

ヨンさんの関心は台風とは全く別の所にあるみたいだ。
俺の声をあっさり無視して、その目がTV画面に釘付けになっている。
「済州は、この国の領か」
「え?」
「元のものでは無いか」
「げん?元って、昔の中国の事ですか?」
「ちゅうごく」

何なんだ、この違和感。
同じ韓国語で話してるはずなのに、どこか小さな歯車がズレたみたいに微妙に噛みあわない会話。
「済州島って、ヨンさん行った事ありますか?」
「・・・恐らくな」
またこれだ。行った事があるのかないのか、自信なさげな声。

「ミカンとトルハルバンが有名なリゾート地の。ハルラサンがある」
その全てに困惑したみたいな顔。そしてヨンさんがぼそりと呟いた。
「馬は」
「うま?」
次は俺が首を傾げる番だ。
「確かに馬の島って言われるくらい多いかな。俺はロケでしか行った事ないから、観光には詳しくないけど」
「・・・そうか」
何故そんなに安心した溜息をつくんだろう。

「この国の領か」
何故そんなに嬉しそうなんだろう、この人は。
「十月だ」
TV画面からようやく目を離すと、表情を改めて告げるヨンさんの声に頷く。

「はい」
「準備は」
「今晩、俺と一緒に来てもらえませんか」
「何処へ」
「俺の主治医のクリニック。信用できるドクターです。今回の事も全部知ってる」
「そうか」
むしろ楽しそうに言って、ヨンさんが頷いた。

「社長が帰って来てウンスさんも起きたら、改めて伝えるけど。まず約束の場所。
ヨンさんとウンスさんが滞在できるようにホテルを取りました。ひとまず10月いっぱい」
「有り難い」
「そんなの当然だ。とにかくゆっくり休んで下さい。俺さえ現場に戻れば、ヨンさんがどれだけウンスさんと出歩いても誰も怪しんだりしない。
もちろん騒がれるかもしれないけど・・・」
「お前の所為ではない」
「そう言ってもらえると気が楽になる。あと」

これを黙ってるのは卑怯だ。あの社長の話を聞いて以来、ずっと考えてた。
「キョジュンさん。憶えてますか?」
ヨンさんは誰の事かまるで判らないらしい。きょとんとした顔で、返事すら帰って来ない。

「あなたのところに、スカウトに行ったって言ってた」
「すかうと」
「事務所に来ませんかって、誘われたでしょ?」
ここまで聞いて、ようやくやっと思い出したんだろう。
「・・・ああ」
ヨンさんは本当に興味なさそうに短く言って頷いた。

「そのキョジュンさんが言ってたそうです。俺やうちの事務所が問題ないなら、社長を説得するから来てくれないかって。
俺は構わない。ヨンさんがもしもやってみたいんだったら」

ふ。
ノドで笑うヨンさんのその声を聞いて思う。

この人は、本当に行ってしまう。
事務所にじゃない。この人が行くべき場所。ウンスさんを連れて行きたい場所に。
最初からここにいたかったんじゃない。まるで迷い込んでしまったようなこの人。
ウンスさんはもともとソウルにいて、誘拐されて戻って来た。
そんなウンスさんを守って、絶対に離れる事なく横にいる人。

「ヨンさん、あなたは」
何を言おうとしてるんだ。判らないのに口の方が勝手に動く。

「ヨンさん、あなたは誰なんだ。どこから来たんだ。どこに」
言い過ぎだ。俺が首を突っ込んでいい話じゃない。それなのに。

「どこに帰るんだ。どうやって?」

 

 

 

 

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