2016 再開祭 | 涵養・結(後・終)

 

 

「・・・私にはごほうびがなかった」

寝屋の窓の外、浮かぶ夏の月。
窓の木桟に切り取られ、丸い銀盤に格子の影が掛かる。

「みんな良いものもらったのに、私だけ何もなかった」

寝台の上で拗ねたよう、あなたが言って背を向ける。
困った方だ。いつまでもそうして膨れられては困る。

「海水尚有涯 相思渺無畔」
海に辿り着く涯有れど、この想いには涯が無い。
寝台に横になったまま李冶の一節を口ずさむ。

「え?」
「判るようになりましたか」
「・・・前よりは、少しは・・・」

少しと言うのは謙遜か。染まる頬を見れば判る。
「あのね」

小さな声で呟いて振り向き、あなたが胸に倒れ込む。
小さな頭を其処に乗せられ、囁く声が胸に響く。

「あなたは怒るかも知れないけど、誰だか知らない人に何を言われても・・・正直言って気にならないのよ、あんまり」
胸から俺の眸を見上げ、この方は唇の端を上げた。
「気持ち良くはない。だけど私を知らない人が何を言おうと、好きにすれば?って思える」
「イムジャ」

そういう訳には行かん。この方の面目が潰れるのに黙って見過ごす事は絶対に出来ん。
強張るこの頬に手を伸ばし、その瞳がゆっくりと笑む。

「だけど、あなたの手紙を読んだりね?それに手紙を書いたりね?テマンに言ったでしょ。
離れてても手紙はずーっと残る。淋しい時取り出して、読む事も出来る。声が聞こえる気がするって」
「・・・はい」
「これから先、もしかしたらあなたと一緒に戦場に行けない時が来るかもしれない。
だけどそんな時、もし私が誰より先に大切な情報を知ったら。あなたに一刻も早く伝えたい事が出来たら。
何か大事な事を伝えなきゃいけない状況でも、今の私じゃ伝えようがなかった。
だって字が書けないんだもの。メールもSNSも電話もないのに」

胸にその頬を擦り寄せ、呟く声に袷が揺れる。
そんな事を考えていたなど思いもしなかった。

「薬名も配合も、薬剤も。チャン先生はたくさんたくさん記録して残しておいてくれた日誌が山ほどあるのに。
私はトギやみんなに頼らないと、それも読めなかった。
でも戦場で、ううん、そうじゃなくたって一刻を争う患者を前に、誰かの手を借りるなんて出来ない。
そんな通訳に人手を割くくらいなら、一人でも多くの命を助けた方がずっと有意義。
でも丸暗記なんて無理だもの。それなら自分で調べて治療していった方が、ずっと合理的だって思わない?」
「はい」
「だから漢字の読み書きができて損はないって思ったの。一緒にいるならもっと助けられるし、離れてるなら手紙をやりとりできる。
誰かに読まれるって考えたら、あなたも思うように書けないでしょ」
「・・・確かに」

叔母上、キム侍医、トギ、医官の誰であれ。
誰かを介しその目に触れその口から読まれると思えば、書ける訳が無い。

「だからこれからももっと勉強するつもりだったけど、私は劣等生だったの?だから何もくれないの?」

その頬が膨れて紅い唇が尖るのを見、俺は頷いた。
「最後に試験を終えれば、褒美があります」
「私だけ試験?」
「はい」

胸に伏せていた顔を上げ、鳶色の瞳が不思議そうに瞬いた。

 

*****

 

「ようこそ」

其処に居並ぶ顔の中に、この方を貶めた女が居るという事か。
典医寺の庭、薬木の木下闇の影からあの方の部屋内を覗く。

夏の強い陽射しがその葉影で遮られるのは幸いだ。
あの女か、それとも手前の女か。部屋中の女が全て敵に見える。

覗かれているなど夢にも思わぬだろう。
あの方が部屋に集った女達の顔を一渡り眺め、きびきびとした口調で言った。

「ご家庭でお願いしたい基本的な衛生対策です。
皆さんの旦那様は高官だと伺ったので、まずはお手本がてら実践して下さい」

あの方はそう言いながら、手にした薄紙をそれぞれの女達に配る。
「まずはうがい。水で結構ですが、緑茶を使うと効果が高まります。
ただし高価ですから、塩でも構いません」

あの方はにっこりと笑うと、女達へ頷いて見せる。
「皆さんはお金持ちですから、緑茶くらいどうってことはないかも知れませんが。
あとは特別なうがいとして、大きめの茶碗一杯の湯にキイチゴの葉を砕いたのひとさじ。
もしくはユズのしぼり汁をひとさじ。それにハチミツをひとさじ。
それを人肌に冷ましてからウガイをするのも、効果があります」
「医官様」

あの方の声が途切れた処で一人の女が睥睨するように顎を上げ、横柄な態度であの方を見遣る。

恐らくこの女だろうと目星をつける。
あの方の鬱陶しそうに寄せた眉間を見れば判る。
「はい」
「私共は医には素人ですから、説明だけされても判りませんわ。そこまで詳しい事をおっしゃるなら」
あの方の渡した薄紙をその目で示し、女は鼻で哂う。

「細かく書いて頂かないと。ああ、医官様が書けるかは存じませんが」
「これは衛生の基礎ですから。皆さんが周りの方にお話する時余計な事が書いてあると却って邪魔になるかと思ったんです。
良妻賢母で徳の篤い皆さんにはお判りでしょうが、誰もが皆さんのように、高価な薬剤を手に入れられるとは限らないので。
でも書かないと忘れてしまう、とおっしゃるなら」

女の厭味にも全く怯まず、あの方が美しい笑みを浮かべて卓上の筆を取り上げる。

「奥様の紙に、代表して書かせて頂きますね」
その筆先を硯に馴染ませ墨を含ませ、小さな手で女の手元の紙へ何やら書きつけていく。

あの方の白い指や、その筆先は見えん。
それでもあの横柄な女が唇を歪めるのは見える。
そしてあの方の得意気な横顔、嬉しそうな目許、滑らかに動く腕が。

「嗽の方法、水の量、効果のある薬剤を書いておきます。全て必ず用意しなくてもいいんです。
無理せず毎日続けるのが大切なので。どうかお宅の使用人の皆さんや、そのご家族にも気を配ってあげて下さい。
集団生活で一度風邪が蔓延すると、皆さんのように栄養状態の良い方々よりも、大勢で寝起きして厳しいお仕事をしてる方々のほうが悪化しやすいし、重篤化しやすいんです。
それが結局、皆さんのご家族にも感染しないとも限りません。
季節の変わり目、これから秋になりますから、くれぐれもよろしくお願いします。公衆衛生は先進国の常識ですから」

そう言って女の目を真直ぐに見つめ、あの方が勝気な顔で笑い返す。
「これなら忘れないと思いますよ、どれ程忘れっぽい御歳でも」

あの方の書きつけた紙に目を落とし、女が悔しそうに渋々頷いた。
気にならないとおっしゃりながら、やはり相当癇に障っていたらしい。

胸のすくような晴れ晴れとした笑みを最後に確かめ、木下闇から忍び足で抜ける。

褒美。何を差し上げようか。
筆、紙、硯を納める螺鈿細工の硯箱。寄木細工の漆塗りの文箱。
それとも何でもお好きなものを、市で選んで頂くか。

しかしそうなればあの方は筆や硯など選ばぬかもしれん。
散々墨を飛ばして、書き物は暫く御免だと思っているかもしれん。

それでも良い。
俺の誰より可愛い門下生が、御自身の手蹟で厭味な女を黙らせ面目躍如を遂げたのだ。
己がそれを成す幾倍も誇らしい。

何でも好きなものを。筆なら幾らでも拵える。
太細取り交ぜ剛柔の穂先で一揃い削ってやろう。
梳紙は最上の質の薄紙を彩豊かに揃えてやろう。

そうしたらその筆で、美しい紙で俺に恋文を書いて下さるだろうか。
あの方らしい、丸く跳ねるようなあの可愛らしい手蹟の踊る恋文を、近々眸に出来るのだろうか。

それが出来るだけでも教えた甲斐があるものだ。
これからは四書五経。弁の立つあの方なら講釈も楽しいに違いない。
如何にあの方を論破してやろうか。

師としての最上の喜びは、打てば響く賢い可愛い門下生を持つ事だ。

次の講義を心待ちに、俺は迂達赤兵舎へ戻る真夏の途を歩き始めた。

 

 

【2016 再開祭 | 涵養 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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