2016 再開祭 | 涵養・後篇

 

 

我慢の利かぬ黒い空は一度泣き出すと手に負えん。
明けから降る雨は烈しさを増し、陽が昇っても天は暗いままだ。
「大護軍!」

鍛錬場の様子を見に行こうと吹抜けを通りかかった俺に向かい、夏雨に濡れたテマンが駆けてくる。
「どうした」
「い今、典医寺に寄ってきました」

恐らくトギに会いに行ったのだろう。嬉しそうなのはその所為か。
何れこの雨では鍛錬は出来ん、体を休めるしか無いと頷く。

「医仙が、大護軍に字を習ってるって」
「・・・ああ」
「先生って、呼んでました。すごく嬉しそうで、たくさん覚えたって俺にも読んでくれました」
「そうか」

緩んだ目許を見られぬように、思わず僅かに顔を伏せる。
あの方はこうして俺を喜ばせるのが殊の外巧い。
嘘など吐けぬこいつが言うなら、本当に嬉しそうだったのだろう。

「それで、俺にも習いに来いって!」
「・・・何」
「一緒に千字文を覚えようって言ってくれて。行ってもいいですか」

ああ、あの方が巧いのは此方を喜ばせる事だけではないらしい。
俺を困らせるのも大層巧い。そして厄介を背負い込ませるのも。

それでもテマンの嬉し気な顔を見て、首を振るのも意地が悪い。
何しろ門下生が一人も二人も、此方の手間はそう変わらない。

「・・・暇があれば来い」
「いいんですか」
「但し、ヒドの調息の鍛錬を優先しろ」
「は、はい!」
「鍛錬場を見に行く」
「俺もい、行きます!」

俺の声にテマンは大きく頷くと横に添い、入って来たばかりの扉をもう一度飛び出した。

 

*****

 

「ねえねえ、テマナはどうして字を覚えたいの?」
居間の文机がもう一つ増えた、夏雨上りの明るい夕暮れ。

この方は文机を並べたテマンに向け、小さく囁きながら首を傾げた。
「お、俺は、大護軍の役に立ちたくて。今は鳩の飛書も書けないし、読めないし」
テマンは此方を気にしつつ、この方の問いに小さく答える。
その声にこの方は大きく笑み、大層嬉し気に頷いた。

「そうかあ、この人のためなのね?」
「ため、じゃなくて、俺がしたくて」

門下生が増えて困る事。

「じゃあ、お互い読み書きできるようになったら、手紙もやり取り出来るわよね?」
「手紙、ですか」
「うん。簡単でも元気?とか。トギは読めるから、トギにも送れる」
「トギは読めるんですか」
「そうよ、だって典医寺の薬を何でも知ってるくらいだもの。
全部漢文で書いた薬名や、薬草の名前も読めるし書けるのよ」
「そうなんですか」
「だからトギに手紙を書いてあげて?声と違うのは、手紙はずーっと残るでしょ?
淋しい時思い出して読むと、声が聞こえる気がするの」

それは駄話が増す事だ。

「声が、聞こえるんですか」
「うん。テマナも読めるようになったら、トギの手紙を読んだ時に分かるわよ」
「お、俺、頑張って覚えます!」
「うん、頑張ろう。私も頑張ります、先生!」
「俺も頑張ります、大護軍!あ、せ先生!」

先生だろうと、大護軍だろうと。
喋々喃々の声の途切れた処で息を吐き、門下生達を等分に見る。
「雑談は此処までだ」
その声に二人の背が伸びる。

「まずは千字憶える。手紙を読み書きするならそれしか無い」
「はい、先生!」

返事だけは殿試大科の最優等だと肩を竦め、俺は文机の上の千字文を開いた。

 

*****

 

「・・・誰ですか」

テマンと共に戻った、西陽の降り注ぐ我が家の庭。
門をくぐり玄関へ向かう眸に飛び込む見慣れぬ小さな影。

縁側には茶碗が三つ並び、鉢に盛られた菓子が置かれている。

「あ、お帰りなさいヨンア・・・じゃなくヨン先生!」
「こんにちは!」
「こんにちは!」

庭先の縁側に腰掛けるあの方の横、雛のように並んだ他の二つの姿。
それぞれ慌てて立ち上がり、その雛は頭を深く下げた。
「・・・ああ」

一人は少年、一人は少女。何れも見た顔だ。
我が家の裏手、裏門から出た宅に住む皇宮衛士の子息と子女。
何故此処にいるのかと眸を眇め首を傾げると、二人の子らの顔色が怯えたように変わる。

この方が取り成すように慌てて立ち上がり俺と子らの間に立ち塞がった。
「大丈夫よ、先生は時々怖いけど、ちゃんと勉強を頑張れば優しいから!
心配しないで一緒に千字文を勉強しよう、ね?」

地へ跪くとこの方は幼い兄妹の肩に守るよう小さな掌を置き、首を傾げて二つの顔を覗き込む。
「は、はい、奥方様」

兄に置いて行かれまいとするように、小さな妹が兄の手を握り締め続いて幾度も頷いた。
「奥方様じゃないわよ?同じ生徒なんだから、ウンスって呼んで?」
「でも父上が、このおうちは皇宮のとても偉い、素晴らしい方の御宅だと。
旦那様は大護軍様で、奥方様は医仙様だって、いつも」
「偉いなんて、全然そんなんじゃないってば!!」

あははは、と手放しで大きな声で笑いつつ、この方は跪いたまま俺を見上げた。
「あのね、千字文の声が聞こえたんですって。私が庭の薬草を手入れする時かな。
大きな声でぶつぶつ言ってたからかもしれないです、先生」

成程、経緯は判ったとどうにか頷く。
改めて小さな兄妹を見れば兄は唇を引き結び、妹は泣くのを堪えるように目を見開いている。

「父上と母上にお許しは頂いたか」
「は、はい、先生。ご迷惑ならすぐ戻れと」
「此処にいるのはご存知なのだな」
「はい」
「善し。では、少しやってみるか」
「良いのですか」
「ああ」

門下生は一人ならまだしも、二人に増えれば三人も四人も変わらん。
しかし問題はもう既に、文机の予備が無い事だ。
居間の卓を全員で囲むしかないと吐く息に、兄妹が顔を強張らせる。

「良かった、いいって!じゃあおうちに入ろう。おいでおいで」
あの方の先導に笑みを取り戻した兄妹の雛が二羽、後に従いて縁側を上がる。

ぴいぴいと鳴声がせんのが不思議だ。
その姿はまるで初夏の池に浮かぶ親子鴨。
親の後につき置いて行かれまいと、一列に泳ぐ雛たちの姿。

小さな三つの背を見送りつつ、横のテマンへ問い掛ける。
「テマナ」
「は、はい、大護軍」
「俺の眸つきはそれ程悪いか」

テマンは無言で散々考えた末、遠慮がちに小さく言った。
「・・・虎の目に、そっくりです。最初会った時から」

やはり鴨とは縁遠いらしい。
そのテマンに頷くと、俺達は続いて縁側から居間へ上がり込んだ。

 

 

 

 

5 件のコメント

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    ヨンは、本当は、ウンスに…教えたかったはずなのよね。ウンスの頑張る姿が愛しく、その姿に心癒されていたような…。
    でも、純粋なウンスは、テマンのこともトギと手紙で会話できるように…、お隣の子どもたちは、やる気できたので、可愛い仲間…と思って。
    ヨン…、少し気分が下がった?
    でも、ヨン先生、
    よろしくお願いいたします(*^^*)
    その代わり、虎の目はだめですよ。

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    気にせんでも…(*・・)σ
    お虎はね!確かに怖い…
    でも其れは大きい猫だから~っ(^o^;)
    でも…飼われた猫は可愛いのよ♪
    誰に飼われたとは言わないよ(≧∇≦)
    傍にいる幼子のようなお人だなんて…。(*^ー^)ノ♪

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    さらんさん、こんばんは。
    ヨンの嫉妬心がチラチラ見えるのが、たまらないです。ウンスが漢字を習う本心を知ったら、本当に一層四六時中目を離したくなくなるのでしょうね。
    改めて。ウメレッドと申します。
    さらんさんの小説の文体、テンポが好みで、ずっとずっと読ませていただいています。
    アメンバーは今、募集してらっしゃらないのですよね…>_<…
    アメンバー限定、読みたいです。
    残念ですが、やはり、とてもアメンバー希望、多かったのでしょうね。色々な方もいることですしね。
    また、もし、もしいつか募集をされることがあれば、ぜひすぐに申請させていただきたいと思っています。
    これからも、楽しみに読ませていただきますね!
    ウメレッドより

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