2016 再開祭 | 五徳・参

 

 

【 徳目之三・恭 】

 

 

陽の長さと共に、訪いの時刻が遅くなっていく。
簡単な理由だ。明るければその分遅くまで鍛錬が出来る。
だからついつい兵が音を上げるまで、長引かせてしまう。

あの方が庭で待って来て下さるのは判っているのに。
夕餉も取らずに仔犬のように立ち尽くしているのは知っているのに。
今宵とてそうだ。トクマンを呼び出した事で平時よりも遅くなった。

黒い目を見るのが申し訳ない。
真直ぐ俺を見る目を覗けば、疑いも疲れもなくただ嬉しさだけが浮かぶから心が痛い。
だから皇宮の正面、大門を飛び出した俺はいつでも走っている。
門前の大路を真直ぐ駆け抜けあの方の待つ大監の御邸まで。

御邸の門の両脇に立つ門衛の下げる頭へ、
「お帰りなさいませ、隊長様」
いつの間にかいらっしゃいませでなく、そうかかるようになった声への返礼もそこそこに飛び込む。
全く無礼な婿候補である事、この上ない。

門内の径に敷かれた小砂利の音を鳴らし、あの方の殿へをひたすらに急ぐ。
その途から目隠し代わりの梔子の、甘い香りの漂う植込みを回り込めば
「チュンソクだ!」

もうすっかり藍色の空の下。今日も嬉し気な声に、こうして出迎えられる。
今を盛りの薔薇がこれ程見事に咲く庭は、皇宮を除けばここ、儀賓大監の御邸くらいしかあるまい。

そして俺の名を呼び駆けてくる姫は、その薔薇よりも日々美しくなる。
こうして毎夕のようにお会いしているのに、毎夕思わず眼を瞠るほど。

年頃の女人とはこういうものなのだろうか。昨日は見せなかった大人びた表情を見せるようになる。
この方に棘があるわけもないのに、その美しさに触れるのをためらう。
それなのに柔らかい体は迷いなく広げたこの腕に飛び込み、俺を見上げた目が心から嬉し気に細まる。

「お帰りチュンソク、今日はどうだった」
細く柔らかな腕を精一杯大きく伸ばし、小さな手で俺の背を撫で、キョンヒ様は夕風に黒い髪を靡かせて尋ねる。
「何事もなく。キョンヒ様はいかがでしたか」
「今日も淋しかった。ずっと逢いたかった」

素直に言われてしまうと返す言葉はない。
真直ぐ見つめて下さる目にどうにか笑み返し、頷き返すだけだ。
今更俺もお会いしたかったですなどと、嘘臭く聞こえそうで言えん。
「キョンヒ様」
「うん」
「夕餉は。まだお済みでないのですか」
「うん、チュンソクを待っていたから」

そんな風に当然のようにおっしゃらないでほしい。
日々暑さが増す中で、夕餉も召し上がらず待っていれば暑気に中る。
だからつい口調がきつくなるのを止められん。
「キョンヒ様」
「うん」
「後生ですから俺を待たず。せめて暑い間は先に召し上がって下さい。さもなければまた倒れます」
「あのね、チュンソク」

キョンヒ様は何故か申し訳なさそうに、眉を曇らせる。
「この頃は待ってる間に、果物をすこーしだけ食べているんだ」
「そうなのですか」
「うん。でも夕餉は一緒に食べたいから、すこーしだけ」

俺がようやく笑うのを見て、キョンヒ様は首を傾げた。
「怒らないのか」
今度は俺が首を傾げる番だ。
「何故怒るのです」
「だってチュンソクがお役目なのに、一人で食べているから」
「キョンヒ様」

濡れたような黒い髪を撫で、根気良くお伝えする。
「幾度もお伝えしました。怒るとすればお食事を抜く時です。召し上がる分には全く構いません。
果物がお好きなら何か手に入れてきます。それとも菓子が良いですか」
「え」
「召し上がって下さるなら、買い求めます。何がお好きですか」
「じゃあ、じゃあ今度一緒に市に行こう!そうしたら一緒に買える!」
「そうしましょうか」
「嬉しい!!」

キョンヒ様は心から嬉し気に背伸びをし、この首っ玉へしがみ付いた。
「チュンソクの言う事を聞いたら、一緒に市に行けるなんて」
「はい」
「本当に嬉しい。いつ行くのだ」
「いつが良いですか」
「あのね、夜市に行きたい!夏の間は何度か立つと聞いたんだ。
でもハナはチュンソクが許してくれねば行っては駄目だって。だからチュンソクと一緒なら良いって」
「夜市ですか」

確かに物珍しくもあるだろう。陽が落ちてからの方が、キョンヒ様も涼しく出歩けるかもしれん。
「では、次の夜市の日取りを調べておきます」
「本当に?」
「はい」
「本当に本当に?」
「はい」
「夢みたい!!」

砂利の上、危なげな絹沓の足許で飛び跳ねるように言われ、改めて気づく。
キョンヒ様をそれ程お待たせしている事を。たかが夜市に出掛ける約束で、夢のようだと言わせてしまう事を。
「キョンヒ様」
「うん!」

申し訳なさに、まだしがみ付かれたままの首を折り、頭を下げる。
「申し訳ありません」
「・・・何が」
急に不安げになった黒い目を見て、心から告げる。
「いつもお待たせする事を。婚儀の話が思うよう進まぬ事を。けれど」

けれどあなたを忘れている訳ではないのです。
俺とて、いつでも会いたいと思っております。
夜が更け一人で御邸から出て行くこの背を、淋しいお気持ちで見送って下さっているかも知っております。
「うん」

この方は、いつからこれ程大人の目をするようになったのだろう。
「チュンソクも淋しい。でも忙しいのも知っているから」
いつから全てをお伝えせずとも、この心を読んで下さるようになったのだろう。

薔薇が咲くような美しさも、そして女人としての心持ちも。
この方はこうして、これからますます美しく開いていく花なのに。
「チュンソクを待つ。ずうっと待つ。だから今はお役目頑張って」
「・・・はい」

これ程美しい花なのに、俺の前でだけ咲いていてほしい。己の狭量さを持て余しながら、心の中でお詫びする。
もしもこの腕を解けば、きっともっと広い世界があなたを待っている。
それでも解けません。それがあなたの倖せでもあると信じます。
腕の中にいて下さる限り、首にしがみ付いて下さる限り離しません。
「キョンヒ様」
「うん」
「心から」

そこで続かず切った言葉を、あなたがそのまま継いで下さる。
得意気に、嬉し気に、そして昨日はなかった大人びた笑顔で。
「でも私の方が、ずうっとチュンソクを慕っているから」

そう言って俺の手を握る、白く柔らかな手。その手を引き、キョンヒ様の殿へと歩く。
こうして握って下さる限り、絶対に離しません。
何故なら俺が倖せだから、それがあなたの倖せでもあると信じます。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です