「結ぶの、難しいわよ」
言われるがままに疵を縫い進め、その終いまで辿り着いた針先を見つめ、この方が呟いた。
「本当なら結索で何年もかかるくらいなんだから。一歩間違えたら傷口の組織ごと千切れる。
絶対指示を聞いてね?」
「・・・はい」
物騒な言葉に頷くと、緊張した顔で俺を見上げた瞳が頷き返す。
「両手結びで行こう。ヨンア、手を貸して」
その声に針を手から離して差し出す。
この方は蓋を取った小瓶を逆さにし、大量の薬をこの指先を中心にぶち撒く。
「こんなに」
「指先が傷に触れたり黴菌が入って、万一感染でもしたら後の処置が大変だし。
手は拭かないでね。アルコール分があるから、濡れたのはすぐ乾くわ」
その声に頷いて、傷の終いをじっと眺める。
「じゃあ糸は、ほんとに軽ーく。軽ーく持って」
その声に従って、終いに出ている縫い糸を指先に持つ。
「こっち、左指は絶対動かさないで。ここでそのまま止めといて」
その声に頷くと、この方が傷口から出ている糸を目で示す。
「右手の糸の先を上から左手の糸にかぶせて、糸の輪っかを通して」
言われるまま右の指先にある糸の先を、左指先を支えに輪の中へ通す。
「上手、そのまま抜いて、両糸のはしっこを引っ張って」
「左手も動かして良いのですか」
「今だけは良いわよ。じゃないと結べないもの。止めてって言ったらすぐ止めて」
その声にゆっくりを糸の両端を引いていく。
「ストップ!止めて!!」
思ったよりも緩やかに糸を締めたところで、この方が声を上げる。
「もう1回。左手は動かさないで、右糸先を左指先にかけて。輪っかに通して・・・引っ張る」
同じ事を二度繰り返した処で、この方が上下左右から傷口の縫合具合をじっくり眺めて確かめ、肩で大きく息を吐いた。
「おしまいー!お疲れさま、ヨンア。先生も」
何とも言えない虚脱感で、思わず膝が砕けそうになる。
侍医も同じ気分か、粗末な寝台の上で大きく息を吐く。
そして誰より気疲れしたろうこの方は、何か小さく唸ると床へぺたりと腰を落とした。
こんなに毎回気を張る役目など、俺には到底出来ん。
半ば誇らしく、残りの半ば心配の余り、床に座り込んだこの方を見る。
「もう絶対イヤ。自分で執刀するなら何時間の手術でも耐えるけど。
人の手術の見学や、まして指導なんて絶対無理。教授ってすごいのね」
この方は意味の判らん独り言を呟きながら、その長い髪を搔き毟る。
そして思い切り息を吸い、その両頬を小さな両掌で音高く引っ叩いた。
ああと溜息をつく俺と、寝台の上から仰天したように見詰める侍医に大きく笑いかけると
「心配しないで。この人、すっごく上手に縫ってくれた。
本当は連続縫いは、皮膚表面にはしないんだけど。
今回は何しろ緊急だったし、医師免許持ってない人の手技だから」
俺とキム侍医の双方を安堵させるようにそう言うと、
「まずは開京まで帰りましょ。帰った後で万一傷が開いたら、典医寺の医官の誰かに再縫合してもらえば良いけど、その心配は多分ないし」
そして床の低さから、鳶色の瞳が立ち尽くす俺をじっと見上げる。
「手先も器用って知ってたつもりだけど、初めてで、それも医療知識もないのにすごい。
尊敬しちゃうわ、ヨンア。いっそ私の弟子になる?そうすればまさに文武両道じゃない?」
「遠慮します」
「あなた相手なら、私がビシビシしごいてあげるのに」
「結構です」
迂達赤の役目だけでも十分過ぎる程厄介だ。
その上こんなに気疲れする役など背負える訳が無い。
溜息交じりに首を振り固辞する俺に、この方は愉し気に噴き出した。
「本当に上手に処置できた。あなたがいなかったらどうなってたか、考えただけでもぞっとしちゃうわ」
「確かに」
キム侍医もこの方の尻馬に乗り、腕の縫い傷をじっと眺めて頷いた。
「医の心得も無い方が縫ったとは思えない」
「門前の小僧だ」
気の抜けたこの呟きに意味が分からぬと首を傾げたこの方の脇、寝台の侍医が低く笑う。
「習わぬ経を読める程、全神経を注いで見ていらっしゃいますか」
「煩い」
怪我人だと大目に見れば、すぐにこうして図に乗り余計な事まで口走る。
傷ではなくこの口を先に縫い合わせておくのだったと、思わず鋭い舌打ちが出る。
「冗談はさておき」
剣呑な気配に気付いたか、侍医は声音を改めて俺を見る。
「チェ・ヨン殿なら、少し学べば薬草や医の基礎は習得できそうです。
経路については、典医寺の医官よりお詳しい。
典医寺にほぼ日参されていますし、合間を使ってみては」
「冗談だろう」
「漢方では一鍼二灸三薬と評される程に、経路や経穴、気水血の流れが重視されます。
チェ・ヨン殿なら良い医官になれますよ」
「えー!!」
突然上がった大声に、侍医と俺は口を噤む。
驚いて床のこの方へ眸を遣ると、その瞳は俺でなく何故か侍医へと当てられていた。
「鍼って、そんなに重要視されてるの?!」
「ご存じなかったのですか、ウンス殿」
何を今更。そう言いたげな目で侍医はその瞳を穏やかに見返した。
「知らなかったわよ!」
この方はそう叫び、床から立ち上がる。
「そんなこと知ってたら、もっと早くちゃんと勉強したのに!!」
「いえ、ウンス殿には誰より優れた天界の医学がありますし。第一チェ・ヨン殿がいらっしゃいます。
経路や経穴なら、すぐに習得できるでしょう」
「ヨンア!!」
侍医の声にこの方は次に俺へ向け、その瞳をひたと合わせた。
「はい」
「ちょっと、家に帰ったらこれから教えて」
「・・・は」
「私、勉強する。本気で鍼の勉強するわ。だから教えて」
これ以上どんな無理を重ねようというのだ。
ただでさえこれほど気を張る役目を負っていると言うのに。
「厭です」
首を振るとこの方は、拝み込むように小さな両掌を合わせてこの眸を見上げる。
「お願い、頑張るから」
「無理です」
どれ程拝み倒されようと、これ以上の事などさせるわけにはいかん。
「どうして!一緒に頑張ろうって言ってくれないの?まさか名武将と名医の称号を、独り占めする気とか」
「高麗の名医はあなただけで充分だ」
本当に心から思う。
神経を尖らせて病や怪我に対峙するなど、俺には絶対に向かない。
「だったらなおさら、名医ユ・ウンスの誕生に力を貸してってば」
「今でも充分に名医です」
「だって鍼が駄目じゃ、どうしようもないでしょ」
ようやく緊張が解けたか、口数が多くなり始めたこの方に安堵する。
あなたは人の病を癒し、怪我を療して帰ってくれば良い。
俺はそのあなたを癒し、疲れを治療してやりたいと願う。
いつもあなたが俺にそうして下さるように。
そうか。そう考えれば。
せめて足腰の按摩や蓬灸でも習得すれば、多少なりともこの方を癒す役に立つかもしれん。
「侍医」
「はい」
「どうせなら按摩を教えてくれ」
突然の俺の頼みにこの肚裡を読まれたか。
侍医は噴き出すのを堪え、俺に向かって頷き返す。
「チェ・ヨン殿」
「何だ」
「一人きりの方の、専任名医を目指しますか」
何も判らず俺達の会話に首を傾げる方の横、再び悔悟の念に襲われる。
やはりその傷を縫う前に、口を縫いつけてやるべきだった。
次にこの手が針を握る日が来るとすれば。
そんな日が来るとすれば、この方の手が再び不自由になった時だ。
この方の痛みや怪我は、己の負うものより幾倍も辛い。
そんな日が二度と訪れぬ事を願うしかない。
黙れと奴に睨みを効かせ、俺はこの方の細い両腕の脇を支え、床から抱き起こした。
【 2016 再開祭 | 彫心鏤骨 ~ Fin ~ 】

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