2016 再開祭 | 夢見路・肆

 

 

中天にあるはずの陽は、重い雲に隠れてすっかり翳っている。
熱だけが残る湿った梅雨空の許、碧瀾渡の市を足早に抜けながら医仙は大きく息をついた。
「蒸し暑いわね」
「ええ」

いつもなら風に靡く紅い髪が、湿気で力無くその肩へ落ちかかる。
その髪を両手で掬うようにして払うと、医仙は重たげに首を振る。
「馬で走ってる時の方が、まだ風があるわ」
「はい」

目指す薬問屋は市の中央、通りに面して大きな扉を開けている。
私が扉内へ足を向けると、医仙が続いて扉をくぐる。
「主」
「ああ、おしばらくです」

薬棚の前で振り返る薬問屋の主が、顔馴染みの私を見て目を細めた。
「どうなさいました、チャン御医様」
「龍葵を探しているのだが」

伝えつつ、薬問屋の天井から下がる薬袋を見渡す。
「勿論ございます。ご用意しましょう。どれ程」

どれ程と、訊かれて初めて考える。
「医仙」
小さな声でお呼びすると問屋の大卓の上、仕切られた薬箱に納める薬草を眺めていた顔が上がる。
「今回の茶会は、どれ程の量を淹れるご予定ですか」
「え?ーっとね・・・」

私の問いに、全く考えてもおられなかった様子で医仙は頭を傾げる。
ああ、そうか。この方が飲ませたいのは、結局たったお一人なのか。
その医仙のご様子を見た心の何処かが、外の梅雨空よりも重く曇る。

今典医寺に、他の薬剤はどれほどあったろうか。
五味消毒飲にするより薄くて良いのだから。
「百匁もあれば十分かと思いますが」
私が言うと、医仙は見当もつかぬのだろう。首を捻った後に
「うん、チャン先生にお任せ」

そう言ってにこりと笑った。 そして主は何かを伝えるよりも素早く
「では百匁、ご用意しましょう」

早速薬棚から龍葵を取り出しながら、部屋の隅の天秤の片側へと分銅を、逆の皿へ取り出した薬草を乗せ始めた。

 

*****

 

「ねえ、まさかこれだけで終わり?」

主の愛想笑いに見送られ、二人で薬問屋の扉を出る。
目の前の碧瀾渡の流れは灰空を映すように沈んだ色。
流れの脇に添って植えられた柳の糸を揺らす風もない。

「はい、これで涼茶が作れますから」
医仙の声に頷くと
「えーーー!」

返って来た大きな抗議に、思わず顔を覗き込む。
「どうされました」
「つまんない、つまんなーい!せっかく出て来たのに、もう帰るの?」
医仙はまるで駄々を捏ねる子のように、頬を丸く膨らませる。

「・・・必要な薬剤は、入手しましたから・・・」
「ここまで来たのよ?ちょっと、ウインドーショッピングだけでも」
「ういんどーしょっぴんぐ、ですか」
「お店を見て回るだけ。ちょっとだけ、ね?先生」

買い求めた龍葵がある。もしも降り始め、濡れれば厄介だ。
そう思いながら、手にした包に目を落とす。
次に目の前で今も頬を膨らませ、こちらをじっと見つめる医仙と目を合わせる。
「・・・見に行きましょう」

私が目許を緩めると、医仙の顔が途端に晴れた。

 

小さな声に気付いたのは、碧瀾渡の市の大通りを歩き始めて程無くだった。
今にも泣き出しそうな曇り空。体に纏わりつく湿った空気。
それにも全くお構いなしで、愉し気に飛び跳ねるような医仙の足取り。

その歩に合わせ、紅い唇が確かに小さく声を刻んでいる。

気付かれないよう視線は前を向いたまま、耳だけで小さな声を追い駆ける。
そして聞き取った瞬間、思わず足を止める。
同時に医仙の小さな声も歩も止まり、横の私を見上げる。
「どうしたの、先生?」
「・・・いえ」
「大丈夫?」
「はい」

どうにか頷き、医仙を安心させるためだけに微笑むと、平静を装い市を歩き出す。
もうあの小さな声は聴こえない。しかし確かに言っていた。
小さな声で足音に紛れ、繰り返し。

─── 自由、自由。

私は、私たちはこの方に、とても残酷な事をしている。
徳成府院君だけではない。国が一丸となって。王様も、大臣らも、そして恐らく典医寺も。
それに抗いこの方を自由にしたい、誓いを果たすと力を尽くしているのは隊長だけなのだ。

自分の時を思い出せば判る。
侍医として初めて皇宮に呼ばれて以来の、咽喉も詰まるような息苦しさを。
だから医仙には、誰より自由でいて欲しいと思っている筈なのに。

私のように羽を捥がれ飛ぶ事も出来ず、二度と超えられぬ大河の夢を見て欲しくない。
二度と駆けられぬ草原の幻を見て欲しくない。そう思っている筈なのに。

私は今でも囚われの身だ。しかしこの方は違う。
高麗の誰一人、この方に無理難題を押し付ける資格などない。

この方は私の夢だ。医術も、そして奔放な振る舞いも。
あの時に泣きながら隊長の息を取り戻した強さも。
私が夢に見、結局救えなかった隊長の心を救った。

私は、私たちはこの方に報いねばならない。せめて地上に居るほんの短い間だけでも。
こんな僅かな自由で、これ程に喜ばせてはいけない。
行きたい場所があるならば、何処にでも行かせるべきだ。
たとえそれが徳成府院君の許でも。他の誰の許でも。
行く場所がない、そんなものは私の詭弁だ。

私はただ、行かせたくないだけなのではないのか。
友の顔をし、医官として理解者の振りをしながら。
どれ程息が詰まるか知っていて、手離せないだけなのではないのか。

 

 

 

 

2 件のコメント

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    気付いちゃいましたね。
    さすが… 茶会だなんだ言ってもね
    一番飲ませたいのは 一人だけ
    ああ やっぱりな。 そうだろうと
    思っても モヤモヤな気分ね。
    あー それって…
    ヨンに対しての 嫉妬 悋気?
    恋しちゃった? お気付きになられましたかな?

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    さらんさん、こんちには!
    ウンスにはちょっとした息抜きだったんでしょうけどね。
    そんなに重く考えている訳ではなく、自由に歩き回れることが単純に嬉しかっただけかと。
    でもチャン先生は、気付いたと言うより思い出したのね。
    皇宮に繋がれた身としての生きにくさを。
    そしてそこから解放しようと抗うヨンを。
    続きが楽しみです♪

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