背に凭れて泣かれれば、少なくとも己の眸に浮かぶものは隠せる。
ただその悲しい涙を指で拭い、震えている肩を抱いてはやれない。
どちらを選ぶべきだろう。己の涙を見せても抱き締めるか。
未練を残さず立ち去れるよう、最後まで隠しておくべきか。
*****
「・・・医仙」
目の前でいつもの通り微笑みながら、妾と並んだ王様を見る医仙。
突然の夕刻、誰そ彼の薄闇に紛れてのような訪問。
「王様、媽媽、突然申し訳ありません」
部屋に燈した油灯の揺れる光の中、医仙は困ったように頭を下げた。
「ご迷惑かなと思いましたが、お2人がお揃いの時が良いかなって」
「いや、丁度良かったのだ」
王様は穏やかにおっしゃりながら、医仙へ静かな目を向けられた。
「王妃の具合は」
「回復は順調です。このまま、なるべくご一緒に過ごす時間を多くして下さい。
それが一番の薬です。お2人ともに」
「そうしよう」
王様は少し恥ずかし気に、お耳の先を赤く染めた。
その御様子を嬉しそうに見つめると、医仙は何度も頷かれる。
「医仙、実は」
医仙の視線にお気づきになると王様は軽く咳払いをされ、今一度正面から医仙をご覧になる。
「この後隊長にも相談するつもりだが、今は急を要する。
ご存じの通り徳成府院君、徳興君の動きは読めぬ。どれ程隠そうと、此度の」
そこで辛そうに息を呑まれ、王様は絞り出すように御声を続けた。
「王妃の拐しの一件も徳興君の仕業と判っている。寡人への脅しにしくじり、坤成殿への侵入が不可能な今。
次に狙うとすれば、典医寺の医仙の可能性が高い」
「よく分かります」
医仙は何故か王様の声に平然と頷かれた。
「・・・医仙」
続く妾の不安げな声に、優しい目が向けられる。
「はい、媽媽」
「・・・何を」
何を考えておられるのか。御命が狙われておるのにこれほど穏やかなお顔で。
呑んだ声の先を判るとおっしゃるように、医仙が両の手で妾の手を包んで下さる。
気付かぬうちに汗をかき、強く握ってしまった拳を。
そして優しくゆっくりと開かせながら
「媽媽、強く握ったらダメです。そうやって握ると気逆が起きたり、肝臓に負担がかかるんです。
緊張したら意識して手を開いて、のどに当てて、深呼吸しながら首をさすってあげて下さいね」
そんな風に、天の医官様らしく諭して下さる。
「・・・はい」
素直に頷くと、王様と医仙が二人で嬉しそうに笑んで下さる。
どれ程の御心痛か、ご配慮下さるかが判るから、我儘など言わぬ。
ただ不安になった。余りに穏やかな医仙が。
いつもなら、ここまで穏やかなお顔は滅多にされぬ方が。
「何をお考えですか。医仙」
妾の声に頷くと、王様がその後を継ぎ
「医仙に、国医の位を考えておる。国医となれば侍医より上位。無論禁軍からも護衛がつく。
禁軍で気詰まりならば、寡人の命で迂達赤なり、武閣氏より兵を」
「王様」
医仙はにこりと笑んで、そしてはっきりと首を横に振る。
「確かにこのまま典医寺にいれば、迷惑がかかるかもしれません。それはすごく困ります。
チャン先生は師匠で、この世界で初めての大切な友達だし、典医寺のみんなに今まで本当に良くしてもらったので」
「そうならぬよう、典医寺の衛を厚くしよう。今より少しは安堵して」
「でも私、チャン先生より偉くなれません。韓医学の実力はチャン先生の方がずーっと上ですから」
「しかし、より高い位なら」
「だったらお願いがあります。位じゃなく一番安全に過ごせる方法。聞いて頂けますか?」
「無論です。お話下さい」
王様が頷かれると医仙は恥ずかし気に少し唇を噛み、そして開いてそっと尋ねた。
「皇宮で一番安全な場所。迂達赤に入隊しちゃ、ダメですか?」
「・・・医仙」
「いたいんです」
妾を、そして王様を正面に見て。
「あの人の、そばにいたいんです。最後になるならその日まで。許して頂けますか」
優しく揺るぎない眼差しと声で。
*****
あなたが居らねば、生きてはいけない。息の仕方が判らない。
あなたが居らねば、生きても無駄だ。生きる意味が判らない。
だから生きたい。あなたと共に。もしそれが赦されるならば。
俺は戦う。あなたが孤独な夜を一人で戦って下さったように。
命の限り護る。あなたが俺の為に笑って泣いて下さるように。
あなたと共に居てこそ初めて、この命は生まれた意味を知る。
誰かを信じその義の為に生きる、信義の意味をこの心に刻む。
何度も振り返るあなたが遠くなる。
夢の中だと判っているのに苦しさと寒さで。
何より護ると誓った約束を果たせぬ悔しさで、体が震え出す。
「・・・ほぐん」
声がする。あの方の声ではない。
あの方は帰らない。今はまだ。高麗の道に慣れておらぬ方だ。
真直ぐ来いとお願いしても、平気で横道に逸れてしまう方だ。
道草を喰っているならばまだ良い。それくらいなら目を瞑る。
ただあの頃おっしゃったように、もしも俺を呼んでいるなら。
捩じれた扉向うの何処かで一人、悲しい声で呼んでいるなら。
そう考えるだけで。
耳を塞ぎたくなる。叫び出したくなる。駆けて行きたくなる。
あの丘の空に向かって、声が嗄れる程に名前を呼びたくなる。
俺は此処にいる。此処にいる。探してくれ。諦めないでくれ。
俺は死ぬまで此処にいる。此処であなたの帰りを待っている。
「大護軍」
扉の向こうの遠慮がちな声に、寝台の上で息を吐く。
窓の外から秋曙の、澄んだ光が射し込んでいる。
眸に浮かぶ身を知る雨。己が誰を待つか知らせる雨。
乱暴に目許を拭い、布団を払い除け起き上がる。
「・・・今行く」
その声に扉の向こうのテマンの気配が遠ざかっていく。
「奪還した基地内は、一通り確認しました」
チュンソクの声に、同席した国境隊長が大きく頷く。
「書は押収、残された武器は集めています。確認の上で纏めて開京に送ります」
「ああ」
「最終確認をして、三日ほどで発てますが・・・」
トクマンが遠慮がちに声を掛ける。
「周囲に敵はないか」
「ありません」
先発隊として周囲を確認してきたテマンが自信ありげに頷く。
「後は任せる」
「は!」
軍議の席から腰を上げると、居並ぶ全員が頭を下げる。
「テマナ」
「はい、大護軍!」
「何かあれば来い」
「判りました!」
その声に送られて、国境隊の軍議部屋を抜ける。
確認にあと三日。待てる限り待つ。
眠っているのか、起きているのか。夢現で耳だけが聳っている。
どんな周囲の気配も小さな物音も、何一つ聞き漏らさぬように。
判っているか誰も近寄らん。下手な音を立てたくないのだろう。
木に凭れ左手から空を染めて上がる朝日を眺める。
そしてこの木の真上を通り、右手へ沈む暮れ空を。
こうしてまた一日過ぎる。待ち侘びる声も足音も見つからぬまま。
幹に凭れて目を閉じる。
逢いたい。
翌朝の左からの朝陽を受け、大きく息を吸う。
胸の中にあなたもあの時吸っただろう、この木の香を閉じ込める。
細く緩く吐き出しながら己の言葉を思い出す。
あなたが居らねば、息の仕方が判らない。
判らないのに息をする。生き延びる為に。
息が止まれば人は死ぬ。此処で再び逢う前に死ぬ訳にはいかない。
戻って来い。息の仕方を覚えているうちに。
逢いたい。
もしも逢えたら、怒鳴るだろうか。
それとも黙って腕に閉じ込めるか。
俺を待たせた事を罵るのだろうか。
それとも探させた事を詫びるのか。
どちらでもあり、どちらでもなく。
再び逢えるその刹那まで判らない。
離れている間に、何か変わったか。
それとも最後の日のままだろうか。
どちらでも怖く、どちらでも良い。
ただ再び、たとえひと目だけでも。
夢でも逢える。心にもいる。それでもあの温かな掌をもう一度。
握れば二度と離さない。誓ったはずだ、この命の限り傍で護る。
幾度も破った、守るべき大切な誓い。もう二度と破る事はない。
いつか再び逢える時には。再会の日を待ち続けるのは怖くない。
丘に静かな風が吹く。秋草が風とは違う音で鳴る。
答えなど初めから、総て判っていたのかもしれん。
其処に立つ姿を見つめる。ゆっくりと立ち上がる。
秋の光の中、その頬を濡らすのは身を知る雨。
あなたの好きな、温かく静かで優しい雨。
その方を映す眸を滲ませるのも、身を知る雨。
もう二度と離さない、この心を伝える雨。
【 2016 再開祭 | 身を知る雨 ~ Fin ~ 】

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