2016 再開祭 | 身を知る雨・中篇

 

 

目覚めたくない。このままひたすら昏い闇の中に居たいと願う。
そして目覚めてしまった時は、また一日近付いた事に感謝する。

ただ待ち望み数え続ける。暦を塗り潰すように。
一日でも早く来いと、永遠の眠りに付ける日を。

 

*****

 

厄介を背負い込んだと言いたげな顔を隠しもせぬ。
迂達赤隊長は剣を抱え、壁に凭れたままで寡人を見遣る。
この男にとって厄介とは、目前のこの新王か。
それとも刺客の手によって瀕死の重傷を負った元の姫、新王妃か。

そもそも元での初見の時からそうだった。
僅か二十数名の近衛兵、そして数名の医官と供を率いて謁見の間に控えていた大きな男。
寡人が踏み入ると一斉に膝を落とした周囲の者の中、最後までそこに立ち黒い冷たい目で寡人を見た。

胡式に整えられた豪奢な部屋の中。
赤壁と翡翠色の柱に囲まれて佇む男の周囲だけが、無彩色のように見えた。

近衛といえばどの国でも見目良い兵を揃えるもの。
目の前のチェ・ヨンの見栄えは背丈といい造作といい、非の打ち所がない。

身の丈は優に六尺を超えている。
重そうな皮鎧を纏う不自由さを微塵も感じさせぬ身のこなし。
長い片腕に見た事のない造りの見事な長剣を下げ、チェ・ヨンは確かに寡人を見た。

お前は頭を下げるに値するのか。
その目に言われたようで、寡人は虚勢を張るために背筋を伸ばす。
「・・・皇宮よりお迎えに参りました」

低く言うと片膝を折り、片腕を立てた膝へ乗せて最敬礼の姿勢を取った迂達赤隊長チェ・ヨン。
これから祖国への長い道中を思い、そして到着後の茨の道を思い。
その何方にも悲嘆に暮れそうな心を鼓舞し鷹揚に見えるよう頷く。

目の前の近衛一人すら従えられずに如何する。
それでは故国で待つ徳成府院君や他の臣など従えられようもない。
しかし。
訝しく思いつつ目前に控えて声を待つ迂達赤隊長、チェ・ヨンの姿を壇上から見る。

確かに頭は下げている。無礼な振舞も一切ない。
ただその全身から発する、徹底的な拒否の雰囲気は何なのか。
口で言うより余程雄弁に、冷徹な目が申しておる。

お前になど従わぬ。お前など認めぬ。

それがこの先戻る祖国、十年離れていた我が高麗の民の総意か。
それとも単にこの男の独断か。
「迂達赤隊長」
「は」
「遠路遥々、ご苦労であった」
「いえ」
「このまま戻るのでは大儀であろう。せめて一日二日休め」
「お言葉ですが」

迂達赤隊長は早速この声を遮るように、顔を上げてはっきりと寡人の目を見た。
王の顔を直視する事が無礼だと、知らぬわけでもあるまいに。
「何処で状況が変わるか判じ兼ねます。
迎え撃つならば土地勘のない元よりも、出来る限り高麗に近い場所にて」

それだけ残すと隊長は立ち上がり、低く言った。
「故にこのまま出立をお許し頂けますか」
尋ねる振りで、実は訊いてなどおらぬ。これが王への物言いか。

しかし間違った事は何一つ申しておらぬ。
この命を狙う者は、己がこうして考えるよりも多いのであろう。
暗澹たる思いで寡人はその黒い目に頷いた。

 

いつ抜けても良いように、この七年の間迂達赤を鍛え続けた。
どんな形でも、役目に殉じて戦死できれば最高と願い続けた。

こいつらは心配ない。今日がまだ見ぬその日なら良い。
あの憎い忠恵の血縁に連なる実弟に仕えるくらいなら。

 

ありったけの灯を照らした部屋の中。
脈に合わせ頸の傷から血を流す王妃媽媽の経穴に鍼を打ち、心の臓の動きを弱める。
少府穴調心気術を用い、少陰心経と少陽三焦経を抑えた。
隊長の雷功を放って頂き、血に濡れた王妃媽媽の頸の拍動と手首の脈から効果を確かめる。

急場凌ぎの応急の治療が長い事続けられるわけもない。
しかし今から動かせば、王妃媽媽の御命はその時点で終わる。
その心の臓が何処までもつかは、もう天命に委ねるしかない。

床も、壁も、外れた扉も一面が血と泥と煤で汚れた部屋の中。
最早誰の血なのか判らぬ血脂に濡れた長衣姿で立ち上がり、横の隊長をじっと見た。

その隊長の黒い眸が訊いた。助かるのか。
私も目で答える。今のままでは無理です。

若き新王は顔を強張らせ、紙の如き顔色の王妃媽媽を凝視している。
ここまで旅して来ての刺客の襲来に衝撃を受けたか。
失えば即ち元への弱みとなる、王妃媽媽の瀕死の重傷を憂いているのか。

誰より顔面蒼白で唇も声も震わせ、泡を吹かんばかりの形相で言い募るのは参理チョ・イルシン。
祈祷を捧げるだの元へその姿勢を見せろだの。
いずれにしても王妃媽媽の御体への心配の気配は全くない。

うんざりだ。高官だろうと、人の命を命と思えぬ下賤な心根の者と同じ部屋にいるなど。
そして王妃媽媽の命ですら政の駒とするこの男が、他の者の命を大切に思える訳もない。
どれ程口先で綺麗事を並び立てても、いざとなれば新王を平然と切り捨てて行くだろう。

信じたくないのか、それとも目の前の現実を認めたくないのか。
若き王がとんでもない王命を発したと伺ったのは、隊長が異形の女人を連れて戻り、治療を終えた後だった。
それも隊長の口からではない。
そこに立ち尽くし待ち呆けたという迂達赤の他の兵達の口から。

「て、隊長はてて天門を、くぐったんです」
「御医がご覧になっても驚いたと思いますよ。何しろ外からの眺めは門にも扉にも見えない。
くぐるなんて、隊長以外に考えつかない」
「ただの石祠、仏像の台座です。光っているだけで。しかし隊長が吸い込まれたと思ったら、しばらくしてあの女人を抱えて来た」
「高麗にどれだけ兵がいても、あんな事は俺達の隊長にしか出来ません」

興奮した面持ちで誇らし気に胸を張る迂達赤の兵達の騒ぎの中。
二階から降りて来た迂達赤副隊長が兵達を叱り飛ばした。
「お前ら、無駄口は終いだ!」
「副隊長!」
「だってほ本当に」
「良いから黙っていろ」
「黙ってられますか。隊長があんな王命まで成し遂げて」
「黙れと言っているだろうが」
「副隊長!それはあんまりでしょう」

しかし副隊長は一歩も引かず迂達赤を見渡すと、低い声で一喝した。
「隊長が休んだ。襲撃で八人欠けた。この後は寝ずの番になる。
上階の王妃媽媽のお部屋を中心に、五尺の間隔で立て」
「はい!」

ようやく迂達赤にも事の重大さが呑み込めたのだろう。
その声に全員が頷くと、そのまま無言で上階へ駆け上がって行く。
「チャン御医」
「・・・はい」
「一つだけ、お願いして良いでしょうか」
兵達が駆け上がって行った後、一人残る迂達赤副隊長が改まった声音で、私へ頭を下げる。

「何でしょう」
「二刻したら隊長を起こして頂けますか。そう命じられました」
「急患が出ぬ限り、無論構いませんが」
「ありがとうございます。では、自分も守りに立つので」

安堵したように頭を下げ、兵に続いて階を駆け上がる副隊長の背に声を掛ける。
「迂達赤副隊長」
暗い上階へと消えていく階の中程で足を止めた副隊長は、木の手摺の隙間越しに階下の私を覗き込む。
「はい」
「しかし上階にいらっしゃるなら、どなたか迂達赤が起こした方が」

私の思い付きの問い掛けに顔を顰めると、副隊長は首を振った。
「先の襲撃で八人抜けました。これ以上は無理です」
「いえ、隊長を起こすだけなら」
「チャン御医」

声を低くし、副隊長は小さく息を吐く。
「我々は隊長の率いる迂達赤です。多少の事は怖れません。しかし」
「しかし」
「一度眠り込んだ隊長を途中で起こす事だけは、無理です」

再び階を駆け上がる副隊長の残した不可解な声に、私は首を傾げた。

 

 

 

 

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