己に問うても答は出ない。いつからこんな気持ちになったのか。
判るのは帰さねばならぬ事。帰せば後はどうなろうと構わぬ事。
闇に木陰に紛れこの肩に頭を預けられれば、心に想いは溢れる。
それでも互いに判っている。この倖せの刻は長くは続かぬ事を。
*****
「おかしいと思わないかい」
その声に俺とチホが振り返る。
マンボ姐さんは店の軒先の卓に広げた梅を虫食いと良いものに寄り分けながら、独り言みたいに呟いた。
「何がだよぉ」
チホは両手の間で槍を遊ばせながら、マンボ姐さんに問い掛ける。
「ヨンさ。お前らはどう思う」
「どう、って」
遊ばせていた槍を止めて握り直し、俺に向かってチホが肩を竦めてみせる。
「どっか変か、旦那」
「・・・変っていうかさ」
思い出しながら言葉を選んで、俺は小さく言ってみる。
「変だったのはさ、ちょっと前。俺達に探らせてキチョルの夜行を知った時、お前に稽古つけたろ。あの時が一番変だったよ」
「ああ、あん時な。まあ俺は得したけどな」
チホは思い出しても嬉しいのか、顔を緩めて頷いた。
そうなんだよな、あの時が一番変だった。
「変だったんなら、あん時だってそうさ。天女が離れで倒れた時があったろ。皇宮から御医まで駆けつけて」
チホが思い出したように、槍を握って言った。
「でも天女は治ったろ?俺もチホも徳興君を見張ったし、旦那だって解毒薬もらってたし」
「まあな。でさ、姐さん」
俺もチホも判らないままで、卓の上で梅を転がす姐さんへ振り返る。
「どこが変なんだよ、旦那の」
「倖せそうなんだよ」
「へ?」
「笑ってたのさ。あのヨンが、天女と往来を歩きながら」
「別に変じゃねえだろ。旦那だって嬉しきゃ笑うさ」
姐さんにそう言いながら思い出す。
ヨンの旦那の笑った顔を見たのはいつだっけ。
師範の兄貴分がずっと前の王様に殺された後。
ヨンの旦那が手裏房に来るかもしれねえって、師範が心配そうに言ってた頃。
あの頃手裏房の離れに転がり込んだ旦那は、餓鬼の俺からしたら幽霊みたいに見えた。
昼も夜もずっと寝て、たまにふらりと起きては外に出掛けてった。
すれ違って頭を下げながらその横顔を見てた記憶くらいしかない。
おっかねえ顔をした人だなって思った。
今にして思えば、どこが怖かったのかも思い出せないけど。
「なあ、チホ」
「ん」
「お前、旦那が笑ったの初めて見たの、いつだった」
「よく笑ってんだろ」
「うん、だから初めて見たのは」
少し真剣な声で訊くと、チホは考えるみたいに天井へ目を上げた。
「そりゃあさぁ」
そうしてしばらく考えて、チホは俺に目を返した。
「・・・いつだ?」
「知らねえよ、だから訊いてんだろ」
「初めて天女を連れて来た時は、笑ってたぞ」
「それは知ってるよ、だから初めて見たのは」
チホは答に困ったみたいに、槍を握らない方の手で耳の後ろを搔いた。
「覚えてねえな」
「天女が来る前にも、見た事あるか」
「ねえ」
あっさり返った答に、俺は何も言えずに頷いた。
「だよな」
「おう。それはねえ。絶対にねえ。自信があるぞ。
あの頃は鍛錬してくれって槍を見せただけで、厭そうな顔して逃げてった」
「俺だってそうだ。弓担いでるの見られただけで逃げられた」
「お前らはこんなにちっちゃかったから、覚えてないだろうさ」
俺とチホが顔を見合わせるのに呆れたみたいに、マンボ姐さんは梅を転がす手を止めて俺達を見た。
こんな、って言いながら、空いた手を床すれすれまで下す。
「そんな小さかった事なんてねえよ」
チホがムッとしながら言う声に鼻で笑うと
「ヨンはここ七年、笑った事なんてないよ。だからあたしも兄者も驚いてるんじゃないか」
「七年ん」
七年笑わない人間なんているのかよ。
驚いてその顔を見ると、姐さんは軒下から通りを濡らす雨、揺れる川べりの柳を眺めた。
「笑わなかった。それだけの理由がありゃあね」
「理由って」
チホの大声を聞き流しながら、姐さんは卓の上の竹笊に選った良い梅を入れていく。
そして入れ終わった笊を持ち上げて息を吐く。
「重いか、持つぞ」
俺が手を差し出すと遠慮なく、梅でずっしり重い籠を手渡しながら、姐さんが困ったみたいに言った。
「困るのは、一度笑い方を思い出した後だ。次に笑えなくなったら」
声の続きを俺とチホが待ってるのを知ってるだろうに、姐さんはそれ以上教えてくれる事はなかった。
いつもなら耳を塞ぐぐらいに賑やかでうるせえ声を、まるで雨の柳の川向こうに置いて来たみたいに。
次に笑えなくなったら。
聞きたいけど聞けずに、俺は笊を抱えて厨の中へ入って行った。
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ヨンにとっちゃー 天女の存在は
あたたかい ゆたんぽみたい
心地よく 良さをしれば はなしがたい
てばなせば それが二度と
手に入らないものならば なおさら
厄介だわ (p_q*)シクシク
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この作品。
実に読み応えがあって毎回唸ってました(^^;;
構成が面白い!上手い!
事柄とヨンをめぐる愛すべき人達のヨンへの思い。それらを通して描かれ、浮かび上がってくるヨンの姿。
この作品を楽しめたこと。そのことがとても嬉しいです♪♪♪
さらんさん、ありがとうございました。
心からの感謝を込めて。
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ヨンの無機質な、7年を見ていたマンボ姐さんだからこその言葉。
「次に笑えなくなったら」
とっても良く分かります。
ウンスに感謝ですね(^^)
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さらんさん、こんにちは❤️
マンボ姐が近くで見てきたヨンですもんね。
愛する者たちに先立たれてボロボロになって心を閉ざしている姿を7年見てきて、驚きと共に嬉しかったでしょうね。
あれだけ長い間抜け殻になってたんだもの。
笑い方を思い出したのにまた笑えなくなったら…
その反動を周りは心配していたんですよね。