2014-15 リクエスト | 藤浪・10

 

 

その夜。

静かな庵の中に敷いた布団の上でふと目を開いた。
ゆっくりと首を回し、瑩さんの姿を探す。
どこにも見当たらない事に急に不安が押し寄せる。

「瑩さん」

声に出して呼んでみる。
「瑩さん」
布団の上で身を起こす。
「瑩さん、何処ですか?」

声が返らない事に、胸が潰れそうに暗くなる。
私は上掛けを毟り取り、布団から飛び出した。

「瑩さん、何処!」

叫びながら庭との境の障子を叩きつけるように開くと、月の明るい庭先に立つ瑩さんが音に驚いたように振り返り、こちらへ駆け寄ってきた。
「どうしました」
「何処にもいないから」
「何処にも行きません」

月の光の降る庭先の縁側に腰を抜かすようにへたり込んだ私を見て、あなたが静かに言った。
「此処にいます。約束した通り」
「何を、見てたの?」

さっき瑩さんが立っていたところを見ようと縁側の上で背を伸ばすと、その視線を塞ぐように大きな姿が遮った。
「見れば気に掛かります」
「見なくても気になるわ」

私の抗議の声に首を振るとこの人が縁側に上がり、私の両手をそっと握って部屋の中へ導いた。
私は手を引かれるまま、庭先を振り向きながら中へ戻る。
「布団に入って」
そう言われ布団に横たわるとこの人が上掛を掛け直し、その上からそっと叩いた。
「眠って下さい」
その声に、私は目を閉じた。

寝苦しい浅い眠りの中、何度も目を覚ましたように思う。
その度に、瑩さんが横で手を握ってくれたようにも思う。
夢なのか、現なのか。
明日の朝に目を覚ましたら庭先から見える御所は、眼下に広がる京の町はどうなってしまうか、そんな事を考えていたようにも思う。

そしてその京の町の風景の合間、切れ切れに。
見たことのない宮殿が、見たことのない町が。
そして見たことのない人が。
見たことがないのに、泣きたいほど懐かしい薄い影が。
何度も呼びかけ、懐かしい名を呼んで、笑いかけてくれたように思う。

夢なのに手を伸ばして、こっちへ来いと呼んでくれた。
その手を掴んで、その人さえいれば大丈夫だと信じて、そこへ戻ろうとして。
懐かしすぎる、愛おしすぎる名を呼ぼうと口を開いて。

そして切ない夢から醒めた。

目を開けると目尻が濡れていた。

私はそれを指で拭って、深呼吸をして、布団の上で身を起こし、最後に左右に頭を振った。

ゆっくり立ち上がり布団を畳み、障子の外の薄青い夜明けの色を確かめて、静かにそれを開いた。

あの人は思った通り庭先の、昨夜と同じ場所でこちらに背を向け佇んでいた。

障子の開いた音に振り返ると私の姿を見つけ、頷いて
「おはようございます」
それだけ言って静かに笑った。
朝の青い空気に溶けていきそうな、それは儚い笑顔で。

私は頭を下げ返して縁側を下り、瑩さんへと近づいた。
瑩さんはもう止めることはしなかった。
私はその横に立ち、眼下の風景を見下ろした。

少なくとも今は、大きな戦の只中の風景には見えない。
路に添って焚いているのだろう、針の先程の篝火が列になって並んでいる。
そしてその中央の、ひときわ立派で大きく黒い影。
あそこがきっと御所だ。
「瑩さん」
「はい」
「・・・現実なんでしょうか」

私の問いかけは、夜明けの空気に漂って消えていった。
瑩さんは何も答えず振り向きもせず、ただ私の指先をその指でしっかりと握ってくれた。

 

手水を済ませ、瑩さんが庭先に立っている間に私は庵の厨を借りて、簡単な朝食を作った。
その匂いにつられるように、瑩さんが厨の裏口から
「典医殿」
そう言って顔を覗かせる。
「何をしておいでですか」
「ご飯です」

その声に、驚いたように瑩さんが目を瞠る。
「はい?」
「人間、生きるにはまずお腹を満たさないと。お腹が空いては力も湧きません。そうでしょ?」
私が笑うと、瑩さんはこの顔を見たまま笑って頷いた。
「出来る限りお結びにしておきます。持ち運べるし・・・あ」

最後になってしまった言葉に、つい声が上がる。
不思議そうに首を傾げた瑩さんに
「勝手にお米、使っちゃってごめんなさい」
私がそう頭を下げると、この人が噴きだした。
「不思議な方だ、作って下さって詫びなど」

食べる気など起きない。それでも、無理にでも詰めこまなければ。
そう思い、作ったお結びを手に渡した瞬間に庭先で響いた轟音に、私たちはそちらを振り向いた。
「中にいてくれ」
そう言って走った瑩さんに首を振り、私は共に庭先へ駆けだした。

明るくなり始めた京の町から、白い煙が立っていた。
そしてこれだけ離れていても声が聞こえる。
足元の山肌を震わせるような声が。

三千人に攻め込まれる京の町を見下ろして、私は地面にぺたりと膝をついた。
恩綏殿、そう呼ぶ瑩さんの声が、遠くから聞こえる。
どうにかそれに頷きながら、私は燃えていく町を見つめ続けた。

 

開け放した襖の前。
座敷に座り、私は庭先に立つ瑩さんの背中越しの京の町を一日中見詰め続けていた。
遅い夏の陽が落ちる。
夕日の中でも町から立ち上る白い煙はおさまらず、紅い空気を春の日暮れのようにぼんやりと翳らせた。
そして入れ替わりにやって来た夏の宵。
闇は町に輝く焔も、照らす篝火のひとつひとつも、そこで戦う大切な命も黒い空気の中に照らし出した。

風向きのせいか、町の煙が盛んにこの山へ吹きつける。
煙の難儀の中で瑩さんは真っ赤な目をしながら、その場所から動く事なく腕を組み、眼下の景色を黙ったまま見つめ続けた。
そして私は部屋の中で硝煙の匂いを嗅ぎながら、瑩さんの背中を座ったまま見つめ続けた。

夜になり
「瑩さん」
背中に声を掛けてみた。

声に反応すると思わなかったけれど、背中がそれにひくりと動いた。
その肩越し、赤い目がゆっくりとこちらに流れて来た。
座る私を見つめると、疲れたように目の下に真っ黒な隈を拵えた瑩さんの目が、ほんの少しだけゆるりと緩んで問いかけた。

「立ちづくめです。少しだけ休みませんか」
この声は離れた京の町から届く砲撃の音よりも小さいはずなのに、瑩さんはゆっくり頷いて、こちらに向け歩いて来た。
私は慌てて手水場へ走り、冷たい水を桶に汲むと急いで瑩さんのところへ戻り、桶の中にあり合わせの手拭いを突っ込み、濡らして絞った。

そして縁側の隅に腰掛ける瑩さんに手渡した。
この人は縁側に腰掛けたまま大きく息を吐き、汗と煤で汚れた顔と、着物から覗く腕を拭っていく。
続いて淹れて冷やしておいた薬缶から注いだ茶を茶碗に入れて渡した時。
それを掴み損ねた瑩さんの震えた掌から、茶碗が庭へと転がり落ちた。

「すみません」
呟いた声を、丸一日ぶりに聞いた。
今朝の瑩さんと同じ人とは思えない程、掠れて低い声だった。

私は首を振り縁側から立ち上がり、庭へ降りると茶碗を拾い上げた。
「お着物、濡れなかったですか」
そう言って立ち上がると、瑩さんの腕が怖々と私の腕に伸ばされた。
そっと腕を支えてくれるその掌は、昨日のように自信に満ちたものではなかった。
まるで迷子が声を掛けてくれた大人に縋りつくような、頼りない弱さ。
近付いても、頼っても良いんだろうか。
そんな戸惑いを漂わせる触れ方に、胸が痛くなった。

「昨日は私を導いてくれたじゃない。守ってくれる、そう言ったじゃない。
自分が弱っている時は、頼りなさい」

気付いたら、口が勝手に想いを吐いていた。
私は茶碗を縁側の端に乗せると瑩さんの両肩に手をかけ、その目をじっと覗き込んだ。

「昨日あなたが、あの中を連れて出てくれなければ」
私は背中の燃える市中を振り返り、そして瑩さんに視線を戻す。
「私、あの中にいた」
瑩さんはゆっくり私の目を見返した。
「あなたは危ない中、ここまで連れて来てくれた」

そう言うと、瑩さんが首を振る。
「あなたなら、お一人でもどうにか出来た。賢い方だ。
例え典医殿でも昨日は外からの者は御所内に入れぬと聞いたので、先走ったのです」

瑩さんの呟きに私は首を振った。
「あなたが、助けてくれた」
そう呟いた。本当に思ったから。
「嘘はつけません。私だけなら今頃どうなったか。あなただって、本当は駆けつけたかったでしょ。
今日一日中、焦れていたでしょ。申し訳ないと思ってる、でも」

今日一日中、その背中を見ながら思っていた言葉が口から洩れる。
嘘はつけない。
「でもごめんなさい、それでも嬉しかった。あなたがここにいる限り、安全だと思った。
私がじゃなくて、あなたが。
あの轟音の中、火の中にあなたがいなくて済んだと思って、私、嬉しかった。ごめんなさい。
あなたが今上様を、そして御所を、どれほど心配してるかも分かってるのに」
「典医殿」
覗き込んだ瑩さんの瞳が、ゆらりと揺れた。
そしてどうにか笑みを作ると首を振った瑩さんが、次の瞬間勢いよく立ち上がり、私を背に庇い腰の刀を抜いた。

目の前にはだかる大きな背中に、驚いて声を失う。
その次の瞬間、門から小さな影が駆け込んできた。
「瑩様!」

押し殺した声に、背の力が少しだけ抜けるのを後ろからじっと見つめる。
「大望」
そこへ駆け寄ると、この人の前に影が膝をつく。
「主上は」
「御無事です。御所禁門が一か所破られ一旦侵入を許すも、薩摩が追い払いました。
ですが火の手は防げず。鎮火までは今暫し戻るなと」
「分かった。長州は」
「すでに敗走。鷹司邸に侵入嘆願の賊徒あり、自害。
敗残兵はほとんどが追い立てられ、川に沿い南へ落ちています。
道すがら確認してきましたが、 此方への侵入はない様子です」
「川沿いに南ならば、落ち合うのは天王山」
「禁裏御守衛総督の指示にて、軍が追跡しております」
「死者は」
「幕府側は七十に満たず。長州側は現在不明です」
「分かった」
「これを」

大望さんは懐から小さな筒を取り出し、瑩さんに向けて丁寧に渡すと
「くれぐれも次の御声を待つようにと。明日の今頃、また参ります」
「大望」
「はい」
「死ぬな」
「はい!」

そう言って大望さんは立ち上がり、頭を下げると駆け出して行った。

 

 

 

 

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