2014-15 リクエスト | 藤浪・5

 

 

瑩さんと、お連れの小さい方の姿が診察室から消えた後。
先生と交わした言葉を、私は頭の中で繰り返した。

魚のよう瞬きせずに見、貝のよう陸でも口を閉じる。
そうだ。今こそ私はそうするべきなんだろう。

今上様におかれては、先の仁孝天皇陛下の七人の皇子さまと八人の皇女さまのうち、四番目の皇子さまであらせられる。
その他に仁孝天皇陛下がお迎えになられた猶子のうち、久邇宮朝彦親王様に、私の師である楢崎先生は侍医としてお仕えしていた。

今上様と久邇宮朝彦親王様は、血縁の無いご兄弟のご関係。
楢崎先生はよくおっしゃっていた。

「今上様におかれては、御兄弟の皇子様がすべてご早逝された。
御兄宮であらせられた安仁親王様、鎔宮様、三宮様。御弟宮の常寂光院宮様、節仁親王様、胤宮様。
そして八人の皇女様の内、敏宮様と和宮様を除く六人の皇女様。この皆さまで三つの齢をお越しになれた方はいらっしゃらぬ。
何が原因でこれほどご早逝が続くのか、考えねばならん」

そして二年前、病の苦しい息の下、先生の診察に訪れる私へと
「恩綏、覚えておきなさい。御所で典医を続けるなら、皇族の皆さま方のご様子を見逃してはならぬ。
御体の健康だけでなく、その御心の内もそうだ。けれど口を滑らせる事は、もっとしてはならない。
魚のように目を開き、貝のように口を閉じなさい。
水の中でも瞬かずに見、陸でも口を開いてはならぬ。
それができれば、君は良い典医になれる」
何度もそうおっしゃった。

そしてこの夜、あの小さい影が呼んだ御称号は、その御皇女和宮様の実の兄上の宮様のものだった。
今上様と十三お年の離れた、仁孝天皇陛下の最後の宮様。
胤宮様が亡くなられたのは、今より二十年少し前。
直後に仁孝天皇陛下は崩御され、崩御直後に和宮様がお生まれになっている。

胤宮様と和宮様の御生母、典侍経子様。
仁孝天皇陛下の崩御と共に落飾され、今は和宮様と共に江戸大奥におわす観行院様。
将軍家斉様より家慶様の代、大奥の上臈御年寄であった姉小路殿の、実の御妹君。

家慶様が十年前に逝去された折に落飾され勝光院を名乗られ、表舞台から姿を消した姉小路殿。
しかし先年の家茂様と和宮様のご婚儀を何度も直訴され、時にはご自身が上洛され、観行院様をかき口説いたと聞く。

公武合体の企み。生き残りを懸ける徳川側から見ればどうだろう。
今上様以外に実の皇子様が残っていればいるほど、今上様の力が増す。

そこまで考え、頭を振る。

考えても答など出ない。出せばそれは師の教えに背く。
魚のように瞬かず見、貝のように口を閉じる。
きっともう、あの方と二度とお会いすることもない。

今夜の出来事は、最後の冬の月が見せた幻のごときもの。

 

「瑩さま」
明るい庭と、薄暗い部屋を隔てる障子の外でかかる声。
俺は顔を上げた。
「入れ」
そうだけ告げると音もなく障子を開けた大望が室内へ滑り込み、静かに平伏して控える。
「お呼びがありました。どうしますか」
「俺は先に寺田屋へ回る。戍亥刻に北の松林で落ちあうとお伝えしろ」
「・・・はい」

面を上げて頷く奴の表情に、明らかに不満げな色が浮かぶ。
「何だ」
「あの坂本に、会いに行くのですか」
「滅多に京にいない男だ。此度の長逗留は良い機会だろう」
「瑩さま」
「何だ」
「いつまで、影でいるのですか」
「どういう意味だ」
「いつまで、認めて下さらない方のために動くのですか」
「大望!」

低い怒号に奴の顔が強張り
「申し訳ありません・・・」
不承不承と言った様子で、その頭を下げる。

「俺は主上のために戻った。お前にはそれを補佐してもらいたい。
気持ちはありがたいが、過ぎた口は慎め」
「・・・はい」
「主上が坂本の本心を知りたいと御所望だ。それを探りに行く。それだけだ」
抑えた声に、控えた大望が諦めたように頷いた。
そして深く一礼し
「戍亥刻に、北の松林。先方にお伝えして来ます」
入った時と同じよう音もなく障子を開け、その姿は明るい庭へと滑るように出て行った。

いつまで、認めて下さらない方のために動くのですか。
あの言葉が頭の中に渦を巻く。
認められる必要などない。認められたいとも思わない。

いつまで、影でいるのですか.
表に出るつもりなどない。出れば厄介事が増すだけだ。
この名の者はもうとうに、死んでいるはずなのだから。

 

物心ついた頃には、江戸の水戸藩屋敷の目と鼻の先、花野井の構える別宅に暮らしていた。
水戸藩老女花野井と、その侍女たちが面倒を見てくれた。
そして折に触れては大奥上臈御年寄、姉小路が訪ねてきた。

父は早く亡くなったと聞かされて育った。
母は事情があり、俺を手元で育てられぬと。
和宮様の御降嫁がなくば、それで終わっていただろう。
何れ花野井の屋敷を出て独立し、父がどなたかも、母が何処かも、兄も、妹の存在も知らず。
そして主上に、この存在が知れる事もなく。

その方が倖せだったのだろうかと、ふと思う。
偶さか耳に挟んだあの会話など、聞かぬ方が良かったのかと。

 

嘉永四年の夏、俺は七つの年だった。
屋敷に訪れた姉小路が、花野井を茶室へ呼び出したのも全く知らず、裏庭で蹴鞠をしていた。

鞠が茶室の裏へ飛び込んだのも偶然なら、その下地窓が風取りのため、少し開いていたのも偶然だろう。

そして鞠を取りに茶室裏へ踏み入った俺の耳に、二人の密やかな声が聞こえてきた事も。

「あの方の御処遇は、どうなさるのか」
花野井が小さな声で姉小路に尋ねた。
「切り札じゃ、滅多な事は申すな」
姉小路はそう言って首を振ったようだった。
「観行院様は夭折の件、未だ疑いもせず信じておられる」
「さもありなん。あの頃はいちどきにいろいろ起きた。ご自身は身重、胤宮の病、帝の御病態の悪化。
わらわは優先順位をつけて差し上げたまでよ」

面倒な話のようだ。息を顰め、俺は茶室裏からこそりと抜け出ようとした。

その姉小路の声に、花野井が息を吐く。
「しかし瑩様をこのまま身分を偽って隠すのは」
「では何という」

そこにいるのが姉妹のみと信じた会話に気が緩んでいたか、もしくは傲慢になっていたのか。
言ってはならぬ言葉がその口から出るのを下地窓の下、障子の隙間から。
拾い上げた鞠を胸に抱えて息を顰め、座り込んだこの耳は確かに聞いた。

「お前の息子、先の帝の最後の皇子、今上の弟の胤宮は生きてわらわが預かっている。
今上が我ら幕府に従わねばその宮を使うと、正直に言えば良いのか」

そしてさも可笑しそうに、ふふと笑う声が続いた。
「あの頃は御所中が、先の帝の御容態に一喜一憂しておった。
胤宮の病態悪化で宿下がりを願い出ても、これ幸いとばかりに送り出したではないか。
実の母親でさえ身重だからと、付き添おうともせなんだ。
幕府の、上様にとっての好機がこの手に転がり込んだのよ。それを握らずして何の手だ」

姉小路の声に、花野井は息を顰め
「そうかと言って、このままで」
「今上とて、知らぬわけではない。瑩様が弟宮である事は」
「何と?」
「何度も裏から確認の手が伸びておる。しかしやはり、戦法はこちらの方が一家言あるようだ。
太平の御代が続こうと我ら誇り高き徳川武士。あちらの手などすぐ読める」
「どういう事ですか」
「切り札として自分の弟宮をわらわが握っておる事も気が付いて探っている。
こちらも彼方が気づいている事は知っている。化かし合いよ」

そう言って、ぱらりと扇子を開く音が、静寂の中に響いた。
「あの方を、どう使う気だ」
「姉君、どうされた。親心でも芽生えたか」
姉小路は、愉快そうに言った。
「詮索無用。瑩様には徳川のため、お役に立って頂く。
どのような価値があるか、そのうちに姉君にもお分かりになる」

そう言うと姉小路は、如何にも楽し気に息を吐いた。

 

「斬ったと思ったんだがな」

隊士の掲げる篝火の元。
斎藤がそう言って地面へしゃがみ指先でその土を撫でる。
太く吐いた息が柱のように、その口元から白く立ち上る。

「寺田屋の裏口近くに一人で現れました。如何にも怪し気だったので追いかけて、一太刀浴びせた。手応えはあったんですが」
ぶつぶつと呟く斎藤に
「傷が浅ければ出血しても、大方着物に吸われる」
歳さんが呟いて肩を竦める。こちらの息は、ほとんど煙ることもない。
息すらこの空気ほど、冷たいということだろうか。

「一、顔は見たのか」
「鼻から下は覆っていました。だから尚更怪しいと思った。
ただ寒くて、襟巻を上げていただけかもしれないが。
目しか見えず、しかも総髪で、髪が目に被っていました」
斎藤はそう言って首を振る。

「手配書の中にあった面か」
歳さんが重ねて、静かに尋ねる。
「分かりません」
「また見ればわかるか」
「自信はないです」
そこまで言った斎藤に
「それじゃあ、どうしようもない」
私の掛けた慰めとも揶揄ともつかない声に、斎藤も歳さんも溜息をついた。

篝火の中にふわりふわりと、それぞれの白い息が漂う。
その息を目で追いかけながら
「無敵の剣の斎藤が、珍しいね」
本当にそれが不思議で、首を傾げて言うと
「二打目も出すことも出来ずに逃げられた」
「それほど速かったのか」

私の静かな声に頷いた斎藤が
「あれを斬れるのは総司、お前の三段突きくらいかもな」
団栗眼を瞬かせ、鼻の頭に皺を寄せた渋い顔で言った。
「では、次は譲ってくれるかい」
「もし次にどこかで遭えたらな」

その声に私はにこりと微笑み頷いた。
斎藤の無敵の剣が逃した獲物か。面白そうだ。
「約束だよ」
「ああ、良いさ」
「愉しみだなぁ」

呟いたこの声は白い塊になり、黒い空へ上がっていった。

 

 

 

 

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6 件のコメント

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    高橋克彦氏の舫鬼九郎シリーズのファンだったので今回のお話しがすっと入ってきます^o^ 舫鬼九郎も御子でありながら全身に入れ墨をして権力争いから遠ざかり、でも父君の為に動きます。螢さんもそういう人ですね!これから二人がどう心を通わせるのか…ドキドキしながら続きお待ちしてます(^o^)/

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    さらんさん、4月とも思えぬ寒い夜、いかがお過ごしでしょうか?
    今夜もお話をありがとうございます。
    創作とは言え、歴史描写がすごいですね!
    日本史には滅法疎い私、何度となく読み返し、ひらすら感心しちゃいました(^_^;)。
    訳ありのヨンとウンス、これからどうなるのでしょうか!
    さらんさん、栄養のつくごはん、召し上がってますか?
    寒い夜です。お風邪をひかれませんように。

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    やったー テマンが 一緒なんですね~
    なんだか ほっと しました。
    その後 チュンソク トクマンも
    出てくるのでしょうか。
    そのにしても ヨンが胤宮様?
    それに隠密?
    これから先 どうなるんでしょう
    只今のBGM
    福山雅治さん弾語りの「銭形平次」
    福山さんの声とギターの音色
    そして歌詞とが このお話に
    みように あってるのうな・・・・・
    哀愁漂ってます

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    >わるきさん
    こんばんは❤コメありがとうございます
    遅コメ返、本当に申し訳ありません(x_x;)
    ああああああ、またしても無学の露呈です。
    高橋克彦氏という作家様も、舫鬼九郎シリーズも
    知らないこの私の駄目さ加減・・・!
    反省し、精進せねば。頑張ります!

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    >muuさん
    こんばんは❤コメありがとうございます
    遅コメ返、本当に申し訳ありません(x_x;)
    このころは脱水をどうにかせねば、だった頃です・・・
    水分だけは取ってたのになあ、と思っていました。
    ああ、こうして読み返すほどにこの話、しっかり書いてあげたかったです・・・
    たとえどんなに、土佐弁に泣かされても(苦笑

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    >haruさん
    こんばんは❤コメありがとうございます
    遅コメ返、本当に申し訳ありません(x_x;)
    そうだ!このコメを拝読して、YTで福山さんの銭形平次を
    探そうと思って、まだ探していません。
    絶対に探して聴かなくては・・・そしてまた書きたくなったらどうしましょうw
    そうなりそうな気が、すごーくします( ´艸`)

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