2016再開祭 | 胸の蝶・拾玖

 

 

扉外を確かめたヨンの視線が俺へと戻る。
何も言うな。黒い眸が饒舌に語り掛ける。
「お茶をお持ちしました。入っても良いですか」
「ああ」

お主の視線の意味は判る。
扉ではなくヨンの眸を見返して唸ると、もう止めることは出来ぬと伝わったのだろう。
奴はそのまま眸を落とし、大きな掌で額を抑えた。
「失礼します」

静かに扉が開くと同時に、部屋の中に雨の匂いの夜風が吹き込んで来る。
女は茶器を二つ乗せた盆を、危うげに支えて部屋へと入る。
そして陶器の触れ合う音を立てながら、その茶碗をまずヨンの前へ、次に俺の前へ置く。

ヨンの計画を、俺の天に吐いた唾の所為で汚すわけにはいかぬ。
お主は護れ。女人を、そして国を、民を、ついでに王とやらを。
後の事は任せておけば良い。再会する前の事だ。一切関わるな。

俺達は互いに死に慣れ過ぎて、大切な物を見落とした。
生死の、そして善悪の曖昧な境目に立ち、しかし殺める相手にも無辜の家族がいる事を。
愛する者とやらがいる事を。

お主は気付いていたのだろう。だから剣が迷ったのだ。
そして俺は気付かなかったから、お主に向けて言い続けた。
己に剣を向ける者を斬る、その何処が悪いのかが判らぬと。

今でも判らぬ。そして一生判らぬだろう。
それでこそ俺だと思う。今更改心など反吐が出る。

口許に浮かんだ笑みをどう勘違いしたか、茶碗を置いた女はこの顔を確かめ安堵したように笑った。
「御酒の方が良いですか」
「おい」
「はい、ヒド兄様」
「知っているそうだな」
「・・・え」

酒の提案には答えず切り出すと、俺の横の床に膝を着いていた女が目を丸くする。
「初めから言えば良かったろう」
「あの、兄様」
「お前の父親を斬ったと。そう知っていると」
「・・・ウンスさまにお伝えしました。絶対に信じませんとも」

手甲の拳で口許を押さえようと、込み上げる嗤いは隠しきれぬ。
信じぬ。何を理由に信じぬと言い切れるのか。
「お前が俺の何を知っている」
「ヒド兄様」
「何を知って信じぬと言い切れる」

雨の夜風に揺れる焔が女の顔に影の斑を描く。
泣いて出て行くか、さもなくば怒りに任せて出て行くか。
しかしその顔には涙も怒りも浮かばなかった。
揺れる焔の影の中、女は笑顔を崩さなかった。
姿勢を正し床に端座すると笑顔の中から掬うような目で俺を見詰め、女は淡々と問い掛ける。

「兄様の何を知っているかが、そんなに大切ですか」
「当然だろう」
「申し上げた筈です。私と祖母の心を救って頂いたと」
「・・・知っていながらか」

女の目が怖いと思ったのは初めてだ。
睨まれている訳でもなく、恨みの色があるでもない。
ただ真直ぐ此方を見る女の目が怖い。
其処に浮かぶ色が余りにも真摯で、それが怖い。

「あの時、兄様は私を置き去りにも出来ました。人も通らぬ外郭の崖から突き落とす事も出来た筈です。
でもそうしなかった。それを知っています」
「お前を連れ出した事は住職が知っている。殺めれば騒動になる」
「では、ご住職様も手に掛ける事が出来た筈です」
「理由がない!」
「そうです。兄様はそういう方です。理由がない限り人を傷つけない。それを知っています。
だから信じます。もしそうするとすれば、絶対に理由があった筈です」

馬鹿な女に何を言っても無駄なのだろうか。話せば話す程、深みに嵌って行く気がする。
泥の中にずぶずぶと足を取られ、その重みで一歩も踏み出せぬ。
泥とは女の筋違いの感謝、見当違いの信頼、そして真実を聞きながらそれを信じぬ頑なさ。

「出て行け」
「ヒド兄様」
「俺の所業を恨むのは良い。殺めたいならそれも良い。しかしヨンと女人には近づくな。出て行け」
「兄様を恨んだりしていません!感謝しているだけです!」
女は痺れを切らしたように小さく叫ぶと、必死に首を振る。

「申し上げた筈です。恨まれても仕方のない父でした」
「だから何だ」
「私にとっては父で、祖母にとっては子でした。申し上げました。ヒド兄様が私たちを救って下さったと。
私や祖母では、父の悪行を止める事が出来ませんでした。
周囲の方々を苦しめていると知っているのに、父であり子だったから見て見ぬ振りしかできなかった!
兄様は父を斬ったりしていません。ただ私たち家族を、そしてこれ以上苦しむ方が増えぬよう、救って下さっただけです!」
「綺麗事だな」
「どうしてですか。正しい事をしている兄様が、何故そうやって御自分ばかりを責めるのですか」

ヨンは俺と女の遣り取りを、ただ無言で向かいから見詰めている。
「出て行け。二度と戻るな」
「ヒド兄様」
「お前が何を信じようと勝手だが」

ヨンの視線、そして女の視線。
何方も見ずに済むよう眼を逸らし、部屋の壁に揺れる焔の影を眺め、俺は最後に吐き捨てた。
「宮中での事を一言でも漏らしてみろ。必ずお前を斬りに行く」
「ヒド兄様」
「出て行け」

泣き叫ばれた方が、恨まれた方が余程ましだった。
真実を知りながら、信じていると言われるよりは。

「そんな事はしません。駄目だと言うなら、ウンスさまの側にはもう行きません!ただ、私はヒド兄様の側に」
女が行かぬなら、俺が行くしかあるまい。
それ以上答えずに腰を上げ、無言で部屋を横切る。ヨンと女の視線が追ってくるのを重々知りながら。

「ヒド兄様!」

部屋から走り出て来た女の叫び声を背に受けながら雨闇の中へ紛れ込む。
何処でも良い。あの女を二度と見ずに済むなら。
俺の過去の所業で、ヨンの計画を台無しにせずに済むなら。

何処でも良い。ここ以外なら何処でも。

 

 

 

 

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2 件のコメント

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    …うぁーん
    永遠の兄ちゃんには幸せになって欲しい
    許す許さない
    受け入れない…受け入れる
    ちょこっとだけ待つ時間があるといいな
    頑固物…ちょーぶきっちょ(不器用) 朴念仁
    似た者兄弟
    弟よ…いかがされます
    さらんさ~ん
    永遠の兄ちゃんがーーーーっ

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