2016再開祭 | 桔梗・廿(終)

 

 

研究室のドアが軽い音でノックされる。
こちらからの返事を待つ間も惜しいのか、すぐにそれが開き
「教授」
今となっては親しみすら感じる顔が、隙間から覗いた。
「どうぞ、ユン刑事」

もうだいぶ慣れて来た。この男はそういうタイプなのだろう。
常に鮫のように泳いでいないと死んでしまうのかもしれない。

私の声にユン刑事は臆する事もなく、堂々と研究室へ入り込む。
ソン・ジウさんが彼に笑い掛けると、デスクから立ち上がる。
「こんにちは。コーヒー持ってきますね」
「ああ、いえ。お構いなく。この後すぐに鑑定結果をユご夫妻にお伝えに行かないと」

ユン刑事がひとまず遠慮して見せると、ソン・ジウさんは判っているという顔で頷き、入替わりに研究室のドアを出て行く。
「ユン刑事」
「結果は、いかがでしたか」
私の手元に今まで集めていた、あの書簡に関する資料。
新たに加わった処理画像や、ユ・ウンス氏の筆跡の分析結果のデータ。
いつの間にかデスクの上にそんなファイルの山脈が出来ている。その山を丁寧に崩し、今回必要なファイルを探し出すと広げる。

デスクを挟み向かいに座ったユン刑事が、そこを覗き込むと顔をしかめた。
「専門用語と数字ばかりですね」
「化学分析とは、本来そうしたものですから」
「私とはどうも相性が良くないようだ」
「そうでしょうね」

あちこち散発的に付箋を貼った目的のページを捜しながら、そのファイルをめくって行く。
今時全ての情報はパソコンに格納してしまえば良いのに、この旧いスタイルの刑事はペーパーレスという言葉を知らないのだろうか。
意地でも紙で持ちたいと言い張られれば、わざわざ結果をプリントアウトしなければならない。

手が切れてしまいそうな新品の紙を捲りながら、単刀直入に言った。
今でも心の中に続く動揺が、声に滲まないよう祈りつつ。
「あの書簡の筆者は、ユ・ウンス氏です」

結論を引き延ばしても、科学の出した結果は変わらない。
何度回答を精査しても、弾き出された数値が言っている。
8年間研究調査してきた書簡の筆者は、数日前に誘拐された女性。もうこうなれば今後の人生、何があっても不思議はない。

そうだ。100%の確約など、この世にはあり得なかった。
たとえ理論上あり得ないとしても、起きている以上は認めるしかない。
ここまで理解不可能な不思議が重なれば、何が起きてもおかしくない。
「あの鎧の男の画像の分析結果です」

続いて画像のデータを男の前に示して見せる。
「まず複製や模造品ではない。時代はやはり高麗末期、王に仕えた近衛部隊の平鎧のようです。
正装ではないそうだ。お忍びだったのですかね」
「・・・はぁ」
「刀に関しては作製時期を限定するのは不可能でした。 しかし韓国では、現存する韓国刀自体が非常に少ないのが実情です。
世論がどう考えようと日本や中国とは違うのです。しかし画像を解析する限り、相当な重みのある物のようです。
そもそも韓国では、古来より剣に比べ弓が重視されているので」
「そうでしたか」
「ユン刑事の予想通り、0.1%に賭けた甲斐がありましたね」
「ええ・・・・・・」

もっと得意がると思っていた。
嬉しさのかけらもない声に、ファイルを見ていた視線を上げて向かいの顔を確かめる。
ユン刑事はどこか途方に暮れたように、研究室の中に落ち着かない視線をさまよわせていた。
「どうしました」
「御両親に何とお伝えすれば良いかと、悩んでいます」
「事実をおっしゃれば」
「お嬢さんが高麗時代に手紙を書きましたと?」
「それが事実なのですから、そう言う以外には」
「600年以上前です。常識で考えれば・・・いや、すでに考えられる状況ではないですが、亡くなっていますよね」
「・・・ああ・・・」

初めてそれに思い当たる。まあ順当に考えて仙人でもない限り、600年間生きられる人間など存在しない。
しかし私が担当しただけでも8年。文化財庁の保管期間だけでも数10年。ユ・ウンス氏が生まれる前から存在していた書簡だ。

「ユン刑事」
「はい、教授」
「あれが高麗時代に書かれた書簡である以上、書いた方は恐らく亡くなっているでしょう。99.9%。私も同意せざるを得ません」
ユン刑事は頷いて重い息を吐く。早計な人だ。
「しかし100%ではない。でしょう?」

私の声にユン刑事は驚いたように、さまよっていた視線を戻す。
あなたが言ったのだ。ご自分の発言には責任を持って頂きたい。
「100%ではないのです。明日にでも帰って来るのかもしれない。誰にも判りません。どうなっているのか、どうなるのか」
「教授」
「高麗末期。李 成桂。あの鎧の男が、果たして一体誰なのか。
高麗末期で柳氏の姓を持ち、歴史上確認出来るとすると、まず思いつくのは李 成桂が威化島回軍で処刑したと言われる大将軍、崔瑩」
「ああ、チェ・ヨン大将軍なら私も知っています」

ユン刑事は途端に自信を取り戻したように、笑いながら頷いた。
そう得意げになられても困ると苦笑し、私はその声を正す。
「ええ、韓国人なら誰でも知っているでしょうね」

何しろ韓国海軍の戦艦にも、そしてテコンドーの技名にもその名が冠され、大衆歌の歌詞にもなっているくらいなのだ。
「崔瑩の墓碑文に刻まれています。三韓國大夫人文化柳氏祔左。彼の妻が柳氏です。
極端に珍しい姓ではないですし、碑文だけではフルネームは判りませんが・・・李 成桂の周囲の関係者、高麗末期、そして女性となると。
そしてあの鎧の件です。李 成桂は王の近衛を務めた史実はありませんが、崔瑩は倭寇討伐後に一時期近衛隊長を務めています。
少なくとも1352年時点に近衛隊長として、奸臣の趙新日を討っている」
「それではあの防犯カメラに映っていた鎧の男は、チェ・ヨン将軍ですかね?
近衛隊長時代の鎧を着て、21世紀までユ・ウンス氏を誘拐しに来た?」

突拍子もない私の仮説に、ユン刑事は楽しそうに笑った。
「ユン刑事」
「はい、教授」
「歴史の研究とは、そんなものかもしれませんね。100%はない。あらゆる可能性を追って、あらゆる仮説を立てる」

100%はないのだ。あの鎧の男、画像から見て推定身長185㎝プラスマイナス3㎝。
画像だけでも凛々しい美男子という事が見て取れるあの男が、本当に若き日の大将軍崔瑩だとしたら。

「あの防犯カメラの映像こそ、世紀の大発見かもしれません。もしもそうなら歴史がひっくり返りますから、大切に保管を」
私の声に頷くと、ユン刑事は資料をまとめた分厚いファイルを小脇に抱え、椅子から立ち上がった。

「壮大なお話です。本当にもしかしたら明日にでもユ・ウンス氏が帰って来るような気になります。
ご両親もそう思ってくれれば良いのですが」
ユン刑事は最後に微笑むと
「もしも・・・ユ・ウンス氏が帰って来られなかったとしても、あのチェ・ヨン大将軍と共にいられるのなら、ご両親も少しは慰めになるかもしれませんね」
「ええ」

たとえ愚かな気休めだったとしても。頷き返す私に深々と腰を折って頭を下げると
「解決までまた度々お力をお借りする事になるかもしれません。御迷惑でしょうが、その時はよろしくお願いします」
研究室を出ようとドアを開けた時、ちょうど戻ったソン・ジウさんとの正面衝突を避ける。

「あ、刑事さん。コーヒーを」
「ああ、せっかくですがもうお暇しないと」
「じゃあこれ、良かったら持って行ってください!」
差し出されたプラスティックカップのコーヒーを受け取り、ユン刑事は再び頭を下げて今度こそ研究室を出て行った。

「教授」
もう一つのプラスティックカップを私へ差し出しながら、ソン・ジウさんがにこりと笑う。
「まだ信じられません」
「ええ」
「世の中は、不思議でいっぱいですね」

世の中が不思議でいっぱいなのだろうか。今回が特殊なケースではないのだろうか。
渡された熱いコーヒーを一口啜り、私は横のソン・ジウさんに呼びかけた。
「ソン・ジウさん」
「判ってます。歴史学者たるもの根拠のない思い込みは」
「・・・徹夜の時以外は、コーヒーよりもラテをお願いします」

これからも研究は続く。むしろ謎はより深まった。それでも去年までとは違う。書簡の筆者は判明している。
高麗末期に書かれた、李 成桂の宗廟で発見された書簡。筆者は数日前に行方不明になったユ・ウンス。

トラジとカムジャ。高麗に当時存在しなかったユ・ウンスの好物。
ユ・ウンス誘拐現場。防犯ビデオ画像。近衛隊の鎧の男。近衛隊長も務めた崔瑩の碑文、大夫人文化柳氏。

その点と点が繋がれば、信じられない結果がついて来る。
それでも100%はない。どんな結果が導き出されたとしても。
その時、あの御両親はどう思うだろう。

私のように信じられず、頭ごなしに否定するだろうか。
それともどれだけ離れていても、お嬢さんが生きていた証が見つかった事に多少は救われるだろうか。

徹夜が続くだろう。眠気覚ましに勢いブラックコーヒーが多くなる。そればかりでは胃腸の調子が悪くなる。
乳製品のたんぱく質で、胃の粘膜を保護しなければいけない。

「ら、ラテ、ですね。判りました」

私の要求に目を丸くすると、ソン・ジウさんは慌てて頷いた。

 

 

【 2016再開祭 | 桔梗 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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2 件のコメント

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    朝のパンチから立ち直り(笑)
    壮大なスケールの話になりました。
    ウンスは… 高麗のチェ・ヨン将軍と?
    にわかに信じられないけど
    信じても… 信じてしまうかも…
    安否はわからないけど
    きっとしあわせなのだろうと ご両親は
    願うばかりかな~

  • SECRET: 0
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    ウンスがヨンの妻だった事は謎のままになったんですね
    信じるか信じないかは貴方次第?
    両親は複雑なままなのかな…
    安らげるといいな
    あ、でもこの話ってリクエストだから切り離して読んだ方がいいのかな?

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