2016 再開祭 | 嘉禎・36

 

 

夕暮れの町、馬車の行き交う通りに光が燈り始める。
停めたその流れの中の一台に、この方が先に乗り込んだ。

二人で腰を落ち着けた馬車の中、あなたは御者に向け
「COEXまでお願いします」
それだけ伝えて柔らかな椅子の背に凭れかかり、大きく息を吐く。

「疲れたでしょ。戻って部屋でゆっくりしよう」
馬車の窓外の薄い宵の藍空を背景に言う、その顔色が常より白い。
「はい」

疲れておるのはあなたの方だ。
この方が今日彼方此方で買い求めた品の入った袋を、この指先で軽く揺らして見せる。

宿屋から持って来たままの薬瓶。紙の束。新たに買った茶葉の入った薄紙の袋。
そして分厚い書が数冊。
「これで全てですか」
「うん。ハーブティーは、戻ったらキム先生に見せてみる。成分が分かれば、高・・・
あっちでも、同じものが作れるかもしれないし。
本屋さんまで付き合ってもらったし、完璧よ」

恐らく高麗、と言い掛け口を噤み正す声に頷き、窓外の藍を増す空を眺める。

天界は美しい。こうして離れて眺める分には。
しかしああして通りを歩けば、ひどく疲れる。
人が多すぎる。出鱈目な音が多すぎる。物が溢れすぎている。
第一、高麗の金が遣えぬのでは話にならん。
この方が金を払うのを見るのは二度と御免だ。
「他に、欲しいものは」
「あると言えばいろいろあるけど、それはあっちでも手に入りそう」
「判りました」
「もういつ帰っても平気よ」

その声に瞬時戸惑う。一刻も早い方が良い。
けれど疲れたこの方を、 あの柔らかい寝台で寝かせたい。せめてあと一晩。

しかし王命だ。この方を連れ、必ず共に帰る。
天門はいつまで開いているか判らん。

そんなに早く走るなと思わず御者を宥めたくなる。
せめて心が決まるまで、もう少しだけ考えさせてくれ。
あの眩暈がする程高い、天へ届く宿屋へ帰りつくまでに。

 

*****

 

踏み入った宿屋の大広間は、今宵も変わらん賑やかしさだった。
行き交う者も、その騒めきも、輝く天井の光も。
昨日甲高い声で話し掛けた卓向かいの女人は、今晩も其処に居る。

しかし俺の姿を認め、横のこの方を眺めると静かに頭を下げ、
「お帰りなさいませ、ユ・ウンス様」
抑えた声でさり気なく、この方の名を呼んだ。

一日中歩き回り、いや、寧ろ逃げ回り草臥れ果てているのだろう。
この方は気にも留めぬよう、その声に小さく頭を下げ広間を抜ける。

おかしい。その女の変わり様に眸を眇める。
昨日夜中にあれ程甲高い声で声を掛けた女。
何故突然この方をこんな低い声で、敢えて名で呼ぶのか。

耳の奥、警笛の高い音が響く。
警戒しろ。周りを見ろ。肚を読め。何が違う。何処が違う。
「・・・イムジャ」
「うん?」

呼び止めてその腕を静かに牽き、広間の隅の椅子にさり気なく腰掛ける。
眺めている間も人は途切れる事無く、あの女の卓前を通り過ぎる。
しかし女は、二度とその者共を名で呼ぶ事は無い。
ただ繰り返し、挨拶の声をかけるだけだ。

いってらっしゃいませ。お帰りなさいませ。鸚鵡のようにそれだけを。
「イムジャ」

隣の椅子へ深く腰を下ろしていたこの方が、大儀そうに背凭れから身を起こし此方を見遣る。
「なぁに?」
「・・・本当に良いのですね」
「え?」
「心残りは」
「ないわよ。急にどうしたの?」

腰掛けた時と同じようにさり気なく椅子を立ち、この方の手を握ると足早にえれべーたへ向かう。
乗り込んだ箱の中、右列五番目の四角を指で押す。
何処にどんな耳目があるか判らん。まだ伝える訳にはいかん。

えれべーたが停まるのを待ちながら、退路を素早く頭に描く。

木を隠すなら森の中。大広間の人波が途切れる前に動かねばならん。
藍を濃くする宵の空。その夕闇の濃さに紛れどうにか動ける処まで。

 

 

 

 

8 件のコメント

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    さらんさん、こんばんは❤️
    ヨン!さすが!!周りの空気を読む事に長けてますね!!
    気配や言動、態度で警戒音が鳴るんだもの。
    備えられた洞察力と観察力そして決断力
    何を取っても天下一品ね❤️
    欲しい物、欲しい情報は揃ったし
    捕まる前に取るもんとってずらかりましょう!

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    もう、ドキドキです。
    ドキドキが止まりません(>_<)
    ドキドキドキドキ・・・・です。
    さらんさん、すごいです。引き込まれてます。
    ちょー、しあわせです。

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    ヨンの勘、働きましたね!
    ウンスは分からないようだけれど、確かに、変!
    警察が動く?
    ホテルのスタッフも、警察の味方?
    どうか、どうか、二人が目的を果たし、無事に高麗へ、今まで過ごしてきた高麗の時代へ戻れますように!!

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    おぉ――
    さすが高麗の武士ヨン!
    危険を察知する能力抜群ですね!
    それにしても、フロントのお姉さん。
    警察の事を言わないで、ウンスに悋気して意地悪してますよね(-.-)
    でも、ヨンがいるから大丈夫!
    ウンスを守って二人で高麗に帰ってね❤

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    もう、ドキドキしながらさすがにヨンはすごいと、興奮してます(//∇//)
    このドキドキが、嬉しくてさらんさんに感謝です♡
    読める幸せを、かみしめてます(~▽~@)♪♪♪

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    さらんさま
    高麗のお金は天界では使えないけど、
    ヨンの高麗武士の勘は間違いなく通用するんですね。さすがです❤
    ホントにヨンの世界の中心はウンスなんですね・・・
    ウンスに関するアンテナの感度が半端ないです。素敵です❤
    もうお楽しみはおしまいかしら・・・?
    もちろん無事に高麗に帰るのが最優先ですけど。
    ヨンにも甘い思い出ができたら嬉しいです。

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