その高い悲鳴を聞いた瞬間に、足が勝手に動いた。
俺より余程扉に近い場所にいながら、出足が一拍遅れたトクマンを突き飛ばすように典医寺へ駆け込む。
先刻まで窓外を眺めていた、同じ場所に座り込んだ医仙。
何故か医仙を庇う事も無く、ただ立ったまま此方へ笑いかける侍医。
「無事ですか」
「ネ、ズミが」
「は」
床にへたり込んだ医仙に手を掛けて立ち上がらせると、医仙はこの腕に縋りつき、怖々部屋の隅を眺める。
「ねえ、高麗のネズミって、全部あんなに大きいの?あんな大きさ初めて見たわよ!」
「・・・は」
そう問う声にも見上げる瞳に怒りや冷たさはない。
ぱあとなあ、そうおっしゃった時のあの真直ぐな瞳のままだ。
その瞳と、落ちた涙に誓った。
もう二度と命を粗末にはしないと。だから泣かないで下さいと。
誓った言葉は必ず守る。
だから俺には、命を賭しての正面突破は最早やりづらいものになってしまった。
知らなかった事ばかりだ。
命を捨てても必ず守る、だから傍にいろ。そう誓うならまだ楽だ。
俺は今までそうして生きて来た。それしか知らなかった。
己は死なずあなたは守る、そう誓うほど難しい事は無い。
おまけにもっとやりづらいのは、体面も外聞も一切考えぬこの方が俺の・・・手を、握ったと、既に皇宮中に知れ渡っている事だ。
ぱあとなあだから、命を粗末にせぬと誓ったから、一日一度はあの東屋で、互いの無事を知らせ合うと約束したから。
盟友としての血判のようなものだ。他意など無い。
しかし広まった噂の中、どいつにそう叫べば良い。
口さがない噂好きの内官達か、皇宮を隅まで歩き廻る尚宮達か。
それともあの日東屋の物陰から此方を覗いていた迂達赤どもか。
だから言ったのだ、俺の体面も考えてくれと。
案の定だ、こうして広まる事など火を見るより明らかだったのに。
だからこそ面と向かって逢いにも行きづらいまま、こうして短い鍛錬の隙間の刻を見つけては、その様子を探っていたのに。
そんな悲鳴が聞こえれば、駆け付けるしかないではないか。
そうしてしがみ付かれれば、その腕を支えてしまう。
この眸を見上げられれば、その瞳を覗き込んでしまう。
それしかないだろう、ぱあとなあだとおっしゃるのだから。
共に戦うと、そうおっしゃるのだから。
消すべきだった。
どう考えても奇轍に勝てぬと判った時、あの時一気に筆で全ての目録を塗り潰すべきだった。
その目録の中には結局書かれなかった、見知らぬ言葉と共に。
今その知らぬ言葉を突き付けられ、どうして良いのか判らない。
「子猫くらいあるんじゃない?私だってそりゃ学生時代にマウスは使ったけど、でもあれと同じ齧歯目なんて信じられない!
こんなよ、こーんなに大きかった!」
こんなと言って細い指で作った輪。
そんなにでかい鼠がいる訳が無かろうに。
侍医もその指先を見て愉し気に噴き出した。
きっとこの方の瞳にそう映っただけに違いない。
「色が黒いだけでも迫力が違うし!もうイヤ、考えられない」
「医仙」
「尻尾もみみずくらいあったわよ、長いし、ああもう!私今までここでネズミと一緒に暮らしてたの?怖くて寝られないわよ!」
「咬まれましたか」
「ううん、すぐどっか行っちゃったけど」
此方へ切々と訴えかける医仙を手近な椅子に座らせ、立ったまま平然と微笑む侍医へ眸を投げる。
奴は頷き返すと
「鼠退治を考えましょう」
そう言って軽く頭を下げ、長衣を翻して部屋から出て行った。
「隊長」
どうして良いのか分からんように、遅れて部屋へ飛び込んだトクマンが扉脇から声を掛ける。
「外を守れ」
「はい」
奴は医仙と俺に一礼し、そのまま扉を出て行った。
「・・・では」
俺が続いて頭を下げ部屋を出ようとした刹那。
先刻より高い医仙の、悲鳴のような声が上がる。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「・・・は」
「行っちゃうの?信じられない、どこに行くのよ!!この部屋のどこかにネズミがまだいるのよ?!
どうするの、中世ヨーロッパでペストが大流行したのはネズミが原因よ?!今のところノミはいなさそうだから、まだ安心だけど」
・・・おっしゃる事が全く判らん。
「守るって言ってくれたでしょ?パートナーでしょ?ちゃんと守ってよ!
今私の一番怖い敵は、この建物のどっかにいるさっきのネズミよ?あと、そのネズミを刺したかもしれないノミと。
迂達赤の中、清潔にしてるわよね?ノミに刺されたらすぐ典医寺に来てって、みんなにも」
椅子の上で小さく体を丸め、行儀悪く両膝を細い腕で胸へ抱き込み、危うげに揺れながら俺を見つめる瞳。
足を床へ着ければ鼠が這い上って来るかの如く、この方は叱られた幼子のように丸まったままで俺を睨む。
その鳶色の瞳の奥が温かいのは、こうして覗けばすぐ判る。
「パートナーなんだったら、ちゃんと顔を見せてよ。こんなにすぐ飛んで来たって事は、どっかにいてくれたんでしょ?」
「それは」
「約束は守ってよ、チェ・ヨンさん」
「・・・はい」
「じゃあ、最初に」
この方は膝を抱えたまま、俺に向かって悪戯そうにおっしゃった。
「チャン先生が戻って来るまで一緒にいてくれる?ネズミが出たらやっつけて。足りないとこを補い合うのが本物のパートナーよ。
まだここにいるつもりなんだから、こういうのにも慣れなきゃ」
「・・・判りました」
渋々頷いた俺の声に、この方が明るい声で大きく笑う。
その声は開けたままの典医寺の扉を抜け、外のトクマンが振り返る。
あの時医仙を逃がす手助けをした上、もしもこの噂まで広めたら、死なん程度の鍛錬や蹴りの一発二発では済まん。
振り向いたトクマンを窓内から睨むと、奴は慌てて眼を逸らした。

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ナニゴト…
結局 ウンスの勢いに 圧倒される
おかげで これから 顔を出しやすくなったかしら?
気にすることないんだけどね。
(* ̄m ̄)プッ
トクマン 黙ってて… フフフ
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もう~
ヨンもウンスもパートナーを
口実にして微笑ましいです❤
まさか?
ネズミさんが、恋のキューピッドに
なるとは(笑)
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さらんさま
このシリーズ、脳内映像化が止まりません。
それから、イロイロととっちらかっちゃってるヨンへの突っ込みが止まりません。
ドラマでのあの頃のシーンの隙間に、こんなことがあったんじゃないかと本気で思っちゃってます。いや、ありましたね、うん、きっとありました。
そしてチャン先生がご指摘の通り、不器用な二人は半歩ずつ、半歩ずつ・・・
もどかしいくらいに少しずつ、でもずっと互いを見つめあいながら、確実に距離を縮めていったのでしょうね。
いい歳をした大人なハズの二人の、大人だからこそのジレジレ具合に乙女達は嵌まり込んだのでしょう・・・
甘いお話も大好きですが、これはこれでまた・・・たまりません!
お忙しい中での更新、ありがとうございます。
寒暖差がまだありそうですので、体調にはくれぐれも気をつけてくださいね。