春草摘

 

 

【 春草摘 】

 

 

夕餉の済んだ部屋。どうやら風向きが変わったようだ。
料理の後の厨からの煙が、今夜はいつまで経っても居間の中に籠っている。

仕方ない、21世紀みたいな換気システムがあるわけじゃない。
ウンスは心の中で呟くと座っていた床から立ち上がり、居間と廊下を隔てている扉を音高く開いた。

その瞬間、庭から入って来た懐かしい香り。
まだ根雪は庭の彼方此方に、真っ白く凍りついたまま残っているのに。

そうだ、この根雪を初めて見た時も驚いたっけ。
今は月明りのせいで青みを帯びた庭の根雪の塊を見ながら、ウンスの白い頬に思い出し笑いが浮かぶ。

ソウルの雪は、アスファルトの上に降ったそばからぐしゃぐしゃに溶けた。
たとえ積もっても、道路の汚れや排気ガスのせいで白ではなくグレーだった。
足許は悪いし、タクシーは捕まらないし。
初雪を好きな人と一緒に見ると永遠に結ばれる、なんて伝説はあったけど。

そこまで考えウンスの顔に浮かんだのは思い出し笑いではなく、本当に明るい、懐かしそうな笑顔。
思い出していた。
どうしてもチェ・ヨンと一緒に歩きたいと、それだけを願ってモンゴル時代を乗り越えた事。

そうだ。私はこの人と、どうしても一緒に歩きたかった。
一人で殺風景な庵で、夜中眼を閉じる度に。
雪の中を、一人で劉先生の薬房から帰って来る度に。
灯篭を片手に真冬の月明りの帰り道で振り返ると、そこには1人だけの足跡が点々と小さな窪みになって、雪の上に青白い影を残していた。

ウンスはとても淋しかった。その横にチェ・ヨンの大きな靴跡がない事が。
その横にソンジンの靴跡が並んだ事もあった。それでも駄目だった。
ソンジンは、チェ・ヨンではないから。
たとえどれ程時間が掛かっても、どれ程待っても、並んでいる足跡をもう一度見たいと思った。だから帰って来た。

いつでもこうして、単純だけれど大切な事を思い出す。
思い出はそれぞれの季節で凝縮されて、ふと風が変わるごと、空気の温度が変わるごと、心の中に蘇る。

江南にいた頃とは比べ物にならない密度と濃度で、ウンスの中にチェ・ヨンとの思い出が、まるでアルバムのように蓄積される。
そこに貼られたインデックスはチェ・ヨンの黒い瞳、穏やかな低い声、繋いだ手、初めて教えた天界語、そんな他愛もない物ばかり。
けれどそうした日の積み重ねが、大切なものを作り上げる事を知っている。
ウンスは肩越しに、居間に座ったまま自分を見つめるチェ・ヨンを見る。

 

チェ・ヨンは、立ち上がって居間の扉を開けた後、そのまま動かずにじっと庭を眺めているウンスを見つめていた。

こうして娶り夫婦の誓いを結んだ後にも、その風変わりな処は変わらない。
ただ庭を見つめる様子も、こうして後ろから見る細い背にも、怒りの気配はない。
それならば少しそうさせておこうと、ウンスの背を見たままで眸を細める。

ウンスが扉を開けた刹那、部屋の中に流れ込んだ風を嗅ぐ。
春の香りがすると、チェ・ヨンはふと息を吐く。
季節が変わった。庭の根雪の面を撫でて居間に吹き込む風は冷たくとも、確かに花の香がする。

こうして季節が変わるたびに思う。ウンスが傍にいる幸運を。
ウンスと出逢う前、季節どころか一日が経つ事すら耐えきれない程長かった。
思い出せば、そんな日々は悪い夢のようだ。

春の花の香を嗅ぐたびに、あの丘の上で思った。
この香がウンスの長く紅い髪の香に似ていると。
思い出し、追いかけようとするたびに風向きが変わり、香が変わり、そしてチェ・ヨンは思い知らされた。
どんな香を嗅いでも、そこにウンスはまだ帰ってきていない事を。
帰ってくればたとえどれ程風向きが変わっても、己が見逃すはずがない事を。

こうして風にのり流れているのは、感じているのは、花の香か。それともそこに佇むウンスの香か。

判らない、と首を傾げたチェ・ヨンが確かめようと腰を上げる刹那。
扉の前のウンスが前触れなく振り向いた。

「ねえ、ヨンア」
愉し気に言うウンスの声に、チェ・ヨンは眸で問い掛ける。
「春の匂いがする」

同じ事を考えていたのかと、チェ・ヨンの咽喉が低く鳴る。
「はい」
返すチェ・ヨンの声に頷くと、ウンスは細い指で開けた扉の向こうの庭を指す。
「きっとこれからどんどんあったかくなってくわね」
「はい」
「春かあ。ねえ、ヨンア」

その声、そして自分に向けられるウンスの視線。
何をねだられるのかと、チェ・ヨンは小さく首を傾げる。
「はい」
「これから、一気に花が咲いたり、草が生えたりするわよね?」
「・・・ええ」

ウンス自慢の小さな薬園のような宅の庭。
自分に心を砕く余りあらゆる薬草や薬木を植えている庭の景色を、立ち上がり扉越しにチェ・ヨンは見つめる。
庭を眺める度、其処に溢れる気持ちが分かる。己の心の方が痛くなる程に、想われている事が。

だから、とチェ・ヨンは思う。
だからこの方を、生涯懸けて護りたいのだと。

「あのね、何度も言うけど」
小さく、けれど確りとねだるような瞳で見つめるウンスの横に立ち、チェ・ヨンは庭ではなく、目の前のウンスだけを眸に映す。
「薬草とかは、収穫のタイミングが重要なのよ。若い芽や根っことか、葉とかね?
うわーっと一気に開いたら、ヨンアも収穫、手伝ってくれる?」

そんな事だったかと、チェ・ヨンは低く笑う。
自分の為に育てている薬草や薬木の収穫だ、幾らでも手伝う。
「判りました」
「ほんと?約束よ?」
「ええ」

初めての庭の春草摘だ。
前の春には、この庭は此処まで草木は植わっていなかった。
思い出しながらチェ・ヨンは頷いた。
こうして想いが育ち、溢れて行くのと同じ速さで庭の草花が増えていく。
すぐにこの庭だけでは足りなくなりそうだ。
ウンスの心がこうして草花を増やす事なら、己の心はどう表せるのか。
海か、山か、それとも空か。
それですら狭く低く足りない気がすると、チェ・ヨンが小さく首を振る。

何処かしら不満げなチェ・ヨンの表情に、ウンスは首を傾げる。
「ねえ、ヨンア」
「はい」
「もしかして・・・手伝うの、いや?」
「いえ」
「だって今、何か不満そうな顔してるわ」
「とんでもない」

目の前のウンスに首を振るチェ・ヨンに安心したように、ウンスの細い体が傾いた。
腕の中に落ちて来たその体を抱き締めて、長い髪に鼻先を埋め、チェ・ヨンは深く息を吸う。

ああ、やはりだ。先刻感じたのは、風の運んだ数かな花の香。
この方の香とは違う。
この方の香こそが、己の中一輪だけの、永遠に咲く花の香だ。

「花が咲きました」

髪に鼻先を埋めたまま籠る声で呟くチェ・ヨンに、ウンスは不思議そうに庭へと瞳を移し
「ヨンア、目がいいのね。どこ?」

不思議そうに月明りを透かし、根雪の中を見渡した。

 

 

 

 

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3 件のコメント

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    さらんさん♥
    新しい、そして春らしいお話をありがとうございます。
    春一番なのか二番なのか分かりませんが、
    風の強い夜になりました。
    黒ヨン&暗ヨンの重いシリーズの後に
    穏やかな夜のお話は、まさに緩急有りで
    ホッと一息…という感じです♥
    自分のために、庭を埋め尽くすように
    ウンスが植えた薬草…。
    目に見える愛情が花開く春もすぐそこですが
    すでにヨンの腕の中に
    一番美しい花が咲いていたということですね。
    ああ(#^^#)、ご馳走さまです♥

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    あ~~❤
    甘い二人のお話。
    さらんさん、ありがとうございます♪
    「ヨンア、目がいいのね。どこ?」
    ほんとに、色恋に疎いウンスさん。
    もう、笑ってしまいます(^^)

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