搏動【中篇】 | 2015 summer request・夏期講習

 

 

「お書きください」
先生に言われて、白い紙をテーブルの上に広げて。
慣れない墨をすりながら、私は考え考え不器用に筆を動かす。
ボールペン、シャープペン、ううん、せめて鉛筆でいい。それで書ければ、それだけでストレスが減りそうなのに。
「陽経の七表脈」
「漢字よねえ」
私の呟きに、チャン先生の目が丸くなる。
「他の文字で表せるのですか」
「それは・・・知らないけど」

浮・芤・滑・実・弦・緊・洪、どうにか書いてみる。
ああ、漢字って絵にしか見えないわ。見慣れない。

「正解です。それぞれの特徴を」

浮:上部で取ると有力。中、沈で取ると弱。
芤:上部では大。中、沈で空洞に感じる。ネギの茎を押す感じ。
滑:滑らか。上・中・沈共に変わらず。盆に珠が転がる感じ。
実:上・中・沈共に有力。充実。長大。堅実。

弦:箏の弦を押さえる感じ。長くまっすぐ。上で急、中沈で空。
緊:上部で強、早。左右に揺れる感じ。
洪:来る脈が強、大。去る時に衰。実脈と大脈の合わさったもの。

その答案を向かいから覗き込み、先生が満足げに何度も頷く。
「素晴らしい」
「ああ、うん。勉強は得意なの、暗記ならね」
「・・・というと」
「実際患者の脈診すると、どれに該当するのか分かんないのよ」
「・・・その方が余程問題です」
「でしょ?だから困ってるんだってば!」

チャン先生は首を振りながら、悩まし気に眉をひそめる。
「まず机上の空論で結構です。脈に種類がある事を覚えて下さい。
その上で脈診をこなして行くしかありません。では続いて、陰経の八裏脈を」

溜息をついて、筆を握り直す。
今さらこんなに脳をフル活用するなんて、思ってもみなかったわ。

 

「・・・こんな処でしょうか」
書き上げた漢字だらけの長い一覧表を長い指先で持ち上げて、チャン先生が隅から隅まで読みながら頷く。
「七表、八裏、九道の脈。三部九候診の場所。脈の示す病態。素晴らしく完璧です。
字は・・・少々読みづらい処もありますが」

そう言って、その一覧表をテーブル越しの私の方に戻した。
「ご自分でおっしゃる通り、暗記はお得意のようですね。
これだけをこうして読めば、脈診の出来ぬ方が書いたとは到底思えません」
「ああ、ハッタリかますのも仕事の内だったから」
「は?」

江南の整形外科医だもの。
医療過誤に繋がる虚偽申請は絶対しないけど、 暗記した文献や臨床データを患者に伝えるのも仕事。

ああ、でもあの頃は良かった。
化学が正確なデータを弾き出したし、最先端の器具が医者の仕事を減らしてくれたわ。
今みたいに全神経を研ぎ澄まして、息を止めて指先の脈に集中したりしないで済んだ。
舌や爪や顔の色を正確に診るために部屋の照明や窓の位置、おまけに診察の時間帯まで考える事なんてなかった。

私が未熟だったとは今も思えない。あの時代の医師としては標準。
ううん、幹細胞の研究やオペ技術を考えれば上出来な医師だった。
なのに今ここでこうしてると、まるで生まれたての赤ん坊。
必要な器具も薬品もない、自分をすり減らして治療に当たるしかない世界、知らない事が多すぎる。

それなら一歩一歩、やるしかないじゃない。
遠くに行くには、近所の道から歩き出さなきゃダメなんだから。

「これで少なくとも、原理は理解してるって分かったでしょ?」
「ええ」
「だから後は、ここにいる間に数をこなしてくしかないと思うのよ」
「正しくおっしゃる通りです。脈診はそれしかない」
「私の世界ではこんな事考えて脈診してなかったもの。また一からだわ。
やるわよ、ここにいる間はやってやる」
「・・・それは頼もしい」

チャン先生は嬉しげに笑って、そしてテーブルの向こうから身を乗り出して、私の鼻の頭を拭いた。
多分ついてたって事よね。扱い慣れない筆から墨が飛んだのかな。

 

「医仙は」
典医寺の医仙の私室へ向かう俺を見つけ、扉前のトクマンが此方に向かって頭を下げる。
そのまま前を通り過ぎようとした瞬間。
部屋の開け放った窓から聞こえる侍医の声に、その場で歩を止める。

「では、まずご自身で触れてお確かめ下さい」
「・・・うん」

医仙の部屋の窓に掛かる紗の薄物の向こう、二つの影が透けている。
それでも向かい合い、何をしているのかまでは見えない。

「もう少し強く」
「こう?」
「お上手です。軽く押してみてください」
「うん」
「感じが変わったのが、お分かりになりますか」
「・・・分かんない」
「もう一度浮かせて」
「こう?」
「今の場所を覚えて下さい。中まで押して」
「・・・あ・・・」
「分かりますか」
「分かる、気がする」
「では深くまで」
「もっと沈めていいの?」
「大丈夫です。ゆっくり確かめながら」
「待って、今なんか」
「・・・御静かに」
「ごめん」
「ゆっくり力を抜いて、中で止めて」
「うん」
「もう一度奥まで沈めて下さい。一番感じられるところで」
「ほんと、違う」
「どこが一番感じやすいですか」
「うーん」
「焦らず、ゆっくりで良い。目を閉じて感じて下さい」
「・・・薬指、ううん?深く沈めると、中指・・・」
「だいぶ敏感になっていらっしゃいましたね」

その声にトクマンを振り返る。
トクマンは俺に睨まれ、慌てて目を逸らす。
「トクマニ」
「はい隊長!」
「あの二人、中で何を」
「知りません」

奴は素直に首を振る。
「ただ気が散るのは困るので、覗かぬように、声を掛けぬようにとチャン御医からも、医仙からもきつくお達しが」
「・・・いつからだ」
「ここ四、五日の間、暇さえあれば侍医がいらして」

奇轍に感け、俺が典医寺に姿を見せぬようになった途端か。
薄物の向こう、一体この五日の間に何が起きた。

扉を蹴り破って踏み入るべきか。それともこのまま立ち去るべきか。
惑う間にも、部屋から漏れる声が気に掛かる。

「先生のも診せて」
「私のものは、今日幾度も確かめていらっしゃるでしょう」
「もう一回。比べてみたいの」
「分かりました」

溜息交じりの侍医の声が、鼓膜を撃つ。
「もう少ししっかりと押さえて下さい」
「難しいな。ここまで沈めていいの?」
「医仙が一番感じられるところまで、深く」
「痛くないの?」
「痛みはありません。沈はかなり深くで診る事もあります。人それぞれですから」
「先生みたいに血管が浮いてると、簡単に診れると思ってた」
「血の管の太さと感じる処はまた別です」

その後の暫しの沈黙だけが、窓の薄物を揺らす。
「・・・如何ですか」
「朝より感じる。ちゃんとわかる気がする」
「何よりです。こうして慣れて下さい」
「分かった。ありがとう、チャン先生」
「お役に立てれば、いつでも」
「毎日、朝夕よね?」
「ええ」
「じゃあまずは自分で慣れてみる」
「当てて、浮かせて、押して、沈める。これにまずは慣れて下さい。
医仙は敏感でいらっしゃるので、直に要領を覚えられるかと」
「目をつむった方が感じやすいの?」
「どうでしょう。集中はしやすいと思いますが」
「じゃあまずは、それでやってみる」
「分かりました」

薄物の向こう、チャン侍医の声が扉へ寄って来る。
「じゃあ、また夕方ね」

部屋内の医仙へとにこやかに笑みを残した侍医の目が、次に此方を振り返り、立ち尽くす俺とトクマンに当たる。
「隊長、いらしていたのですか」

踵を返す間もない。
立ち呆けの俺に向かい、扉の内側から医仙が明るい笑顔で手を振った。
「あれチェ・ヨンさん、久しぶり」
「丁度良かった。隊長に折り入って、お願いが」

侍医の声に医仙が慌てて
「チャン先生、だって、忙しいでしょ」
何やら小声で、そんな風に言い募る。
「お願いするだけでもしてみます」

阿吽の呼吸のその声を聞きながら、俺は侍医を正面から睨む。

 

 

 

 

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ

1 個のコメント

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です