「碧瀾渡に参ります」
昼の巳刻。
典医寺と康安殿の中間、東屋で向かい合うチェ・ヨンの突然の声にウンスは目を丸くした。
夏の東屋には周囲の木々を渡る風と、蝉の声以外の音はない。
掛かった橋の下、池に浮かぶ淡い赤紫の蓮花が、夏の光に花弁を透かせ凛と咲き誇る。
「え」
「碧瀾渡に、参ります」
ヨンは繰り返した。
「だって、ハネムーンで行くんでしょ」
「開京より最も近く白絹が手に入るとなれば、其処しかありませぬ」
「白絹って」
「・・・イムジャ」
この方がおっしゃったのではなかったか。
婚儀の衣装は、絶対に白だと。白以外は召されぬと。
ヨンが首を傾げてウンスをじっと見つめると、ウンスは戸惑ったように首を振った。
「ねえ、ヨンア」
「はい」
「そんなに皇宮を留守にして、大丈夫なの?」
「チュンソクが居ります」
そりゃ、もちろんいるけど。あなたはチュンソク隊長とは違う仕事がきっとあるでしょ?
もしかして私の我儘で振り回して、すっごく迷惑が掛かってない?
なのにあなたの事だから、なんにも言わないで付き合ってるんじゃない?
きっとそれで、後で残務整理に追われてるんじゃないの?
それが嫌だから、ハネムーンは近場にしたかったのに。
ああ、バカバカバカバカ。ウンスの馬鹿。
何で考えないの、考えてから言わなきゃ駄目なのに。
ウンスはそこまで思いたち、その長い髪を爪を立てて掻き毟る。
ヨンが慌てたようにウンスの両手を握って止める。
「急に如何されました」
ヨンの驚いた声に首を振って、ウンスはヨンを見上げる。
この人はそうよ、そういう人よ。私が頼めば絶対に嫌って言わない。
何考えてるか相変わらずあまりにも口にはしないけど、おしゃべりな目を見ればすぐに分かるじゃない。
私が分かってあげなきゃ、他に誰が分かるって言うのよ。分かられた方が問題よ。
「ね、ねえヨンア?」
「はい」
「ほんとに大丈夫よ、婚礼衣装は、もちろん白じゃなきゃ嫌だけど、ほら、皇宮にあるじゃない。繍房?だっけ?仕立て屋さん」
「仕立て屋ではありません」
「あそこで、お願いしたっていいじゃない」
「イムジャ」
あなたは姿勢を正すと私の目をじいっと覗き込んだ。
「覚えて頂きたい」
「何を」
「皇宮の尚宮たちは全て、王様と王妃媽媽の為におります。俺達の雑役をこなす為でなく。
ましてや己の婚儀のような私用を頼む為でなく」
「そりゃ、そうだろうけど」
「ですから、碧瀾渡に参ります」
「だってあなたの」
「・・・俺の」
「あなたの仕事が、どんどん溜まるじゃないの!」
「お気になさらず」
「そこが一番大事でしょ!あなたに無理させても全っっ然嬉しくない!」
いきなり髪を掻き毟ったかと思えば、そんな事を悩んでいたのか。
ヨンはウンスの大声に息を吐く。
いい加減に、覚えて頂きたい。
俺のものを勝手に叩き、掻き毟り、傷つけるような事をするなと。
本当に、この方には覚えて頂かねばならぬ仕来りが、山ほどある。
皇宮の仕来り、開京の仕来り、高麗の仕来り。
この方のいらしたあの天界とは、まさに天と地ほど違っておろう。
この方にしてみれば、堅苦しく鬱陶しく目障りなものやも知れぬ。
けれどその則を外せば人目につく。唯でさえ人目を引く方なのだ。
目立って人の口に上る事で、新たに余計な敵を生まぬとも限らぬ。
ようやく片をつけた徳興君や、かつての奇轍。
これ以上面倒な敵が出来れば、新たな守りを敷き直さねばならぬ。
北の紅巾族という目下の敵、そしてこの後騒がしさを増すであろう南の倭寇。
それを前にどれほどこの方を護りきれるのか。
この身の脇に置き、護り、どれほど共に戦場を廻れるのか。
もしもこの後この方との間に子を成せば、戦場に連れて行くのは無理だ。
そこまで思いヨンの肌が粟立つ。
もしも子が成せれば。
この方とその子を置いて、己のみ戦場へ出向くなど、そんな事になれば。
その時に新たな敵が、もしも居たとすれば。
今のこの平穏の間にどうにか婚儀を。
能うならば、俺達の運命ならば子を。
そして子が育つ間の、穏やかな時を。
俺に与えてやれるのはそれだけだ。子が健やかに育つための穏やかな時。
戦で踏み荒らされぬ地で、愛しい者同士が笑って過ごせる時間。
少しでも安らかに、少しでも長く。 この方に与えたいのはそれだけだ。
そしてこの国の民全てに、等しくそんな時のあるように。
「碧瀾渡へ、参りましょう。一刻も早く」
それだけを繰り返して呟くヨンにウンスは首を捻って、それでもようやく頷いた。
*****
康安殿の回廊を進み王の私室前へ辿り着いたヨンに、入口を守る迂達赤が深く頭を垂れた。
「大護軍」
「王様はおられるか」
「只今、坤成殿においでです」
康安殿の回廊に立つ迂達赤の頭数が少ない事にヨンは頷いた。
他の者は王を守って、坤成殿へ行っているのであろう。
「急な御用か」
「は」
その返答にヨンの眉間に皺が寄る。
「何があった」
「王様がおっしゃるには、宝玉工とお会いになると」
「宝玉工」
「は」
合点のいかぬまま、ヨンは頷いた。
「判った」
踵を返し坤成殿への回廊へと向かう背を、扉を守る迂達赤らが深く頭を下げて見送った。
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さらんさん、おはようございます。
今日もうっとりするようなヨンの心の声を聞かせて頂き、ありがとうございます。
ウンスの希望を、着々と叶えていくヨン❤︎
デキる男は、こうして仕事もプライベートもサクサクと何でもこなしてしまえるのですよね。
そうそう! 毎朝晩、素晴らしいお話を更新し続けておられる さらんさんも、まさにデキる女です(≧∇≦)
さらんさん、今日も水分補給を心がけつつ、共に頑張りましょうね❤︎
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ウンスはかぐや姫みたいですね!
婚儀を挙げたいならば、望む物を集めよ、と。
こんなカッコいいヨンがこんなに尽くしてくれて。
甘いですね~