比翼連理 | 44

 

 

「媽媽」

坤成殿の扉外より密やかに掛かる、武閣氏副長の呼び声。
チェ尚宮は影のように扉脇へ控え、耳を澄ませて外の物音を探る。
そこに在るウンスの声に思わず深く吐きそうな溜息を奥歯を噛んでどうにか堪え、無表情で頭を下げ続ける。
「医仙がおいでです」

副長の声に王妃が晴れやかな顔を上げる。
「お通しせよ」
その王妃の声と共にチェ尚宮は、王妃の私室と回廊を隔てる扉を引く。
引かれた隙間より慌てた足取りで夏の風と共に、坤成殿へとウンスが飛び込んで来る。
卓前に腰掛ける王と王妃、その横に控えるヨン、扉両脇に控えたチェ尚宮とチュンソク。
そして最後に王たちの向かいに立ち上がり、自分に向かって頭を下げる宝玉工を次々に確かめて。

戸惑っておるな。無理もなかろう。
チェ尚宮は頭を下げて控えたまま、ウンスの気配を読む。
回診と思い室内に踏み込んでこの大人数。戸惑われるのは、まあ致し方なし。
しかし、とチェ尚宮は何度目になるか覚えておられぬ溜息を改めて噛み殺す。
そして下げたままの視線でウンスの左手を見遣り、光る金の輪を認めると、唇を真一文字に引き結んだ。

まさか医仙とヨンがあのような大仰な指輪を着けて帰るとは、さすがの自分も読み切れなんだ。
戻って来たのは昨日の事であるのに、既に皇宮はその一件でまるで蜂の巣を突いたような騒ぎ。
王妃媽媽付筆頭尚宮である己に王様の筆頭内官でもが遠慮がちに声を掛けてきたのは、今朝の出仕の刻だった。

 

「チェ尚宮さま」
回廊より呼ぶ声に、足早に其処を抜け坤成殿へ向かおうとしていたチェ尚宮は歩を止め、周囲を見渡す。
早朝の回廊はまだ夏の熱に灼ける事もなく、静かな風だけが抜ける。
康安殿へと向かう途と坤成殿への途の二股の別れ途に筆頭内官ドチの姿を見つけ、足音を立てず其処へ寄る。
「何か」
「チェ尚宮様にお伺いしたき儀が」
「どうぞ」
「実は・・・非常に、伺いにくいのですが・・・」

煮え切らぬドチの物言いに、チェ尚宮の眉間に苛気が漂う。
訊くならば早く訊け、訊かぬなら行かせろと言わんばかりの表情に、柔らかい物腰が身上のドチは戸惑うように目を泳がせる。
「実は昨日、大護軍殿が王様とのご拝謁時に、指輪の話になり・・・」
「指輪」
「巴巽村よりお戻りの際、大護軍殿が金の指輪を身に着けておられ・・・」
「ほう。で」
「王様が大層お気に掛けておられ・・・しかし大護軍殿に伺っても仔細が不明だったもので・・・」
「ええ、で」
「チェ尚宮様であれば、何か御存知かと・・・王様のお気病みを、軽くしたく・・・しかし大護軍殿に、無理にお尋ねするのも・・・」
「存じませぬ。初耳です」

ヨンが指輪。全く寝耳に水だとチェ尚宮は首を傾げる。
金の指輪。兄上の遺言を胸に、銑鉄の釜すら持たぬ男が指輪。
この天の下はどこであれ自分の寝床と莚一枚を愛馬に括り、渇きを癒す雨水のみで戦場を生き抜いてきた武骨な男が指輪。

恐らくはウンスの駄々であろうと、チェ尚宮にも察しはつく。
しかし選りによって、刀を振って戦場を駆けるだけが能のヨンが指輪。
それでは皇宮でも話題に上るはずだと、チェ尚宮は呆れて首を振った。
「何か判れば、お知らせしましょう」
それだけ言って頭を下げ、チェ尚宮はドチの前で踵を返す。

判ればな。

チェ尚宮は思いつつ、回廊を坤成殿へと足早に抜けた。
まさかあれ程の騒ぎになっておるなど、予想もせずに。

 

「隊長」
「おはようございます」
坤成殿の回廊で配置の武閣氏達より掛かる声の中、足早にその前を抜けていく。
「隊長」
武閣氏副長が坤成殿、王妃の私室前で頭を下げるのをその眼で確認し、チェ尚宮は頷いた。

「昨夜の歩哨は、どうであった」
「特段変わりなく、静かでした」
「そうか」
「昨夜も王妃媽媽の御許へ、王様の御渡りがございました」
「何より」
「変わり、と、言えば・・・」

突然口籠る副長にチェ尚宮の訝し気な目が当たる。
「何だ」
「いえ、昨夜の歩哨の者たちの間で、妙な噂が」
「噂」
「はい」
「どんな噂だ」
「実は大護軍殿と医仙様の着けておられる指輪の件で、王妃媽媽と医仙が、お話をしておられたと」
「・・・どういう事だ」

指輪指輪と、全く騒々しい。
チェ尚宮は眉間に縦の深い皺を刻み、口籠る副長を小さく一喝した。
「王妃媽媽の御部屋内での話は、一切他言無用。武閣氏の鉄掟だ。
入隊初日の新兵であっても判る事であろう」
「おっしゃる通りです。しかし昨日は医仙様の回診時より、兵たちも皆浮き足立っており」
「一体何だと言うのだ。それほど珍奇な指輪を着けておるのか」
「いえ、決してそうではなく、むしろ逆に素晴らしいお話で」
「話」
「はい」

副長は逡巡しながら僅かに頬を赤らめて、チェ尚宮の睨みから珍しくその眼を逸らして俯いた。
おいおい。兵の顔でなく、若い女人の顔になっておるぞ。
女人を兵として率いる難さ厄介さを知るチェ尚宮は、副長の様子に眉を顰める。
「どのような逸話なのだ、お前までが素晴らしいと言うなど」
「それが、隊長」

チェ尚宮が水を向けてみるや、副長は滔滔と言葉を並べ始めた。
「もともとは医仙様が媽媽におっしゃっていたのです。
左手薬指は、天の世では心臓に繋がる指と信じられておると」
「・・・ほう」

やはり出処はウンスかと、チェ尚宮は肚に力を込める。
この地の仕来りには慣れておられぬ。天界のように気儘に振舞われても、多少の事ならば目を瞑ろう。
しかしそれも任務に支障が出れば一言物申さねばならぬ。
たとえあの甥の溺愛する嫁御、己の義理の姪となろうと。

「医仙様がその指に嵌めていらっしゃるのは、眩いばかりの金剛石で」
「金剛石」
それ程眩い金剛石など聞いたこともないと、チェ尚宮は首を捻る。
高麗一と名高い巴巽村の鍛冶が自ら打ったのであれば、余程の技が在るであろうとは思うが。
「はい、それは見事な金の指輪で、私どもも見惚れておりましたが」
「で」
「昨夜の歩哨の見回りで、迂達赤隊員と擦れ違った折、大護軍殿も同じ指輪をしていらっしゃると分かり」
「お前たちは歩哨をしておるのか、立ち話をしておるのか!」
「申し訳ございません!」

チェ尚宮が飛ばした鋭い檄に副長は慌てて深く頭を下げる。
「纏めるぞ。先ず、医仙が金の指輪をしておる」
「はい」
「大護軍も同じ指輪を」
「はい」
「左手薬指、心の臓に繋がる指に、揃いの指輪を」
「はい」

ああ、だから何だと言うのだ。
堪え切れず食い縛った歯の隙間、今まで溜めて来た息が全て漏れるのを感じつつ、チェ尚宮は大きく息を吐く。
ヨン。お主の下らぬ指輪一つで、皇宮をこれほど乱してどうとする。
阿呆が。この考えなしの腑抜けが。身に着ける前に考えよ。
散々な誹り言葉をその胸裡で叫びつつチェ尚宮は冷静な顔のまま、目の前の副長をじっと見た。

「実は・・・」
チェ尚宮の目を受け副長は全て打ち明けるが得策と判じたか、改めて深く頭を下げた。
「畏れ多くも王様に置かれましては昨夜の御渡りの際、大護軍殿と医仙様に倣い王妃媽媽と御揃いの指輪をお作りになると、御定めになられたご様子です。
故に本日急ぎ宝玉工を呼ぶようお達しが」
「・・・何だと」

たかが一介の兵の身に着ける金の指輪で、そこまでの騒ぎになれば。
チェ尚宮は痛む頭を振り、大きく息を吐く。
畏れ多くも王様と媽媽までがお決めになれば、皇宮の噂雀どもが黙っていられる訳もない。

全く、これであの男の馬鹿さ加減が遍く天下に知れ渡ったな。
何度呟いたか知れぬがヨン、婚儀の祝儀代りにもう一度伝えてやろう。
お前がどれ程の剣の遣い手だろうとも、無双の雷功の操手だろうとも、お前の威信など既に皇宮では地に堕ちておる。
女人に骨抜きにされうつつを抜かすただの立派な間抜けだわ。

時既に遅しと十分に知りながら副長に向かい
「一切の口出し、他言無用。此度の件、全隊員に箝口令を。
恐らく大護軍には大護軍の考えが・・・何かしらあろう・・・」
最後に力なくそう呟くチェ尚宮の声に、副長は姿勢を正し
「はい」
そう言って、深々と頭を下げた。

 

 

 

 

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