比翼連理 | 25

 

 

「ヨンさん」
宅の門をくぐり庭先へ入ったチェ・ヨンの馬に気づいたコムが、大きな手でチェ・ヨンから手綱を受ける。
短く名を呼ぶ優しい声に頷いて、ヨンは鞍から滑り降りた。

まだ馬上のウンスに向けて続いてコムの手が伸びる。
それを黒い眸で僅かに制すと、気づいたコムは髭面の中、 穏やかな眸で笑んで頷きすぐに大きな手を引いた。
そのままウンスの腰を支え、残る掌で小さな手を握り締めつつ、ヨンは鞍を降りるウンスを手助けした。

 

「お帰りなさいませ」
玄関扉を入った途端にそうかかるタウンの声に、ヨンの横、ウンスが大きく笑って返す。
「ただ今ぁ!」

殆ど足音を立てる事なく居間から玄関への廊下を進むタウンに、ヨンが僅かに目礼を返す。
「お務め、お疲れ様でした」
二人の目の前まで近づき、深く頭を下げたタウンに、ウンスは屈託なく笑いながら
「タウンさんは、今日どうだった?変わった事なかった?」
そんな風に首を傾げる。
「はい。医仙殿は如何でしたか」

頷いて微笑み問返すタウンに、ウンスの鼻先に皺が寄った。
「タウンさん」
「・・・はい」
僅かに真剣味を帯びたウンスの声にタウンが表情を改める。

鼻に皺を寄せ、鳶色の瞳でじっとそのタウンの顔を見詰めた次の瞬間。
ウンスのその目がふわりと三日月形に解けた。
「私は、ウンスと言います」

その笑みに毒気を抜かれた顔で、タウンは目の前のウンスを驚いたように見つめ返した。
「・・・はい」
「ウーンース、せーの」
「ウーンース、さま」
「んー」
最後の「さま」のところで唸り、首を傾げたウンスは、それでも暫しの沈黙の後うんと頷いた。

「我慢します。でも出来れば最後のさま、は、いらないかな」
「ウ、ンス、さま」
「はい、タウンさん」
嬉しげに笑うウンスの顔に、タウンの眼が当たる。

戸惑っている、俺と同じだ。
タウンの様子、ウンスとの遣り取りを耳にしながら玄関先、ヨンは穏やかな目で二人を眺める。

あの時、この方の名を初めて伺った森の中。
小さな焚火に照らされた暗い夜の森の中で、この方はおっしゃった。
「ウンスっていうの。ユ・ウンス」
声に出さず、舌先でその名を転がした。
ユ・ウンス。
この口の中、甘い飴のように広がったその名。

ウンス。ユ・ウンス。

これ程愛おしい響きになるなど、あの時予想すらしなかった。

玄関先、楽し気に始まった女人二人の遣り取りを聞きつつ口の中、もう一度呟いてみる。

ウンス。ユ・ウンス。

ヨンの声にならぬ息の呟きに気付いたタウンは口を閉じ、傍らのウンスの腕を指先でつつく。
ウンスが丸い目を上げるとタウンは黙ったまま首を振り、ヨンの横顔の唇を視線で示した。

ようやく気付いたウンスの顔が、嬉し気にぱ、と上気する。

二人の女人の眼が当たっている事など知りもせず、微かに起きた忍び笑いを聞いて初めて、ヨンは目を上げた。
「・・・どうしました」

そう問いかけられたウンスは紅い顔で首を振る。
「なんでもなぁい」
そんな二人を玄関先で、タウンは優しく見守っていた。

「明日より、暫し留守にする」
夕刻離れに下がったタウンとコム、二人の部屋を訪れたチェ・ヨンはそう伝えて顎を下げた。

衛の兵だけが使っていた頃は煤けていた離れの部屋は、小ざっぱりと整えられていた。
磨いて張り替え開け放った障子向う、まだ十分に光を残す夏の空が広々と覗いていた。

庭木の影が黒く切り取るその障子の枠の中、真朱から紅紫を経て、紺へと色を変える西空を見つつ続ける。
「来てもらった早々済まん。留守を頼む」
「勿論です。何とぞ、お気をつけて」
タウンが深く頭を下げる。横のコムも同じく深く頷いた。
「二人に来てもらったことで、これ程安堵するとも思わなかったが」
「過分なお言葉です」
姿勢を正したタウンが首を振る。

「コム」
「はい」
「テマナを、覚えているか」
「はい」
コムがゆっくりと微笑んで頷いた。
「留守の間、何かあれば奴に伝えてくれ。一日一度は寄るはずだ。
俺への繋ぎを知っている」
「はい」

その声に頷き返すとヨンは立ち上がる。
「邪魔をした。明日は早々に立つ」
「畏まりました」
そう頭を深く下げる二人に送られ、離れを静かに出た。

******

「どうしてなのかなあ」
寝屋の寝台の上、腕の中で己の胸に鼻をすり寄せ、眠そうに呟くウンスの声に眸を落とす。

「何がですか」
「どうしてタウンさんのごはんは、あんなに美味しいのかなあ。食べ過ぎちゃう。太ったらどうしよう」
眠さが勝っているのだろうか。
語尾を危なかしく揺らしながら、ウンスがヨンの胸に鼻を寄せたまま首を振る。

夜着の胸元の袷が鼻先の動きで開かれ、温かい息が裸の肌にかかり、柔らかい鼻先が肌を擦る。
まるで焼き鏝を当てたように、その肌だけが熱くなる。
裸の肌に柔らかく倒れ込むウンスの鼻梁、当たる唇。
わざとだろう。そうとしか思えぬ。
こうして深い火傷を負わせて、苦しむ俺が楽しいか。

まじないを、もう一度。

しかし今宵の俺には、火傷に効く特効薬がある。

「ウンスヤ」

己の胸にすっぽりと収まり半ば夢の中に居るこの方の、乱れた花の香の髪に隠れた小さな貝のような耳。
その夜目にも白い耳朶に、唇を寄せて呟く特効薬。

「・・・ウンスヤ」

耳朶を噛むよう唇を寄せ、吐息だけで呟くと、眠気が飛んだかウンスが慌てたように急に大きく頭を上げる。
その頭で鼻柱を殴られぬよう避けてヨンは腕の中、此方を見上げるウンスの瞳を受け止め、もう一度囁いた。

「ウンス」

この名を呟き、婚儀までは辛抱しよう。
傷つけたくなどない。無理に奪いたいとは思わない。
あなたの名すら呼べなかったあの頃に比べれば、今の己は倖せだ。
その名を呼べる。呼べば返る声がある。見詰めて下さる瞳がある。

知らなかった頃とは違う。見ぬふりをし、押し殺した頃とは。
あなたは俺のもの。そして俺はあなたのもの。
そして教えて下さった、何にでも効く万能薬がある。

「愛している」

これさえ知っていれば苦しむことはない。
いつでも呟き、傷を癒すことが出来る。
たった一言でこの心と想いの全てを、この方にお伝えできる。

「肥えようと、細ろうと」

俺の言葉に、腕の中のこの方が項垂れる。
項垂れて首を振り、小さな声で呟いた。

「・・・完敗だわ」

負けん気の強さなら、俺に敵う兵はおらん。
高麗の戦女神に守られて、護るべき者の居る今の俺は無敵だ。

腕の中のウンスをゆっくりと強く抱き直し、何処へも逃さぬようにしてから。
片頬で笑み、一眠りしようとチェ・ヨンは大きく息をついた。

 

 

 

 

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3 件のコメント

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    この万能薬 いつまで効くかしら?( ´艸`)
    ちゃ~んと 婚儀まで効力あるかな?
    婚儀過ぎたら 絶対 期限切れね
    違う意味で 有効ですけど… (/ω\)
    うふふ 二人でお出かけ うれしいな♥

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    さらんさん、今宵もきゅんきゅんのお話をありがとうございます。
    私も毎日、さらんさんのお書きになるヨンに完敗続きです。
    毎晩、大好きなウンスと共寝していても、そしてべったりとくっついていても、一線を越えないヨンがたまりません。
    さあ、明日から二人の婚前旅行?
    とても充実した時間を過ごしていますね、さらんさんのヨンとウンスは。
    明日もきっと完敗だと思います。
    楽しみにしていますね。
    さらんさん、暑い日が続いています。
    きちんと召し上がって、睡眠もとってくださいね。

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