私の唇のすぐ先で、あなたの唇が動く。優しい息がかかる。
そこから洩れる言葉は全部私の事しか考えてないから、だから私はまた泣きたくなる。
泣いたら心配させるから、我慢するけど。
ねえヨンア、とウンスは胸の中で語り掛ける。
私はあなたに、何が返せる?こんなに想ってくれるあなたに、何を返せる?
いつだってあなたの半分でも返したいって思ってるのに。
護ってくれる半分でも、護りたいって思ってるのに。
首を抱かれたままの細い腕の中、すぐ其処にウンスの息遣いを感じながらチェ・ヨンは尋ねる。
「行く先を決めねばなりません。馬で良いですか」
「何でもいいわよ」
「遠方では鞍擦れが」
「大丈夫、そしたら2人でゆっくり行こう。ゆっくりなら平気」
「開京以外の町を御存知ないでしょう。行きたい処は」
「どこでもいいの」
ウンスの弾む声の答にヨンは薄く笑んだ。
何でも良い、何処でも良い。
以前の俺なら、何処までいい加減なのだと腹を立てたろう。
今はその後ろに隠されている気がする。一番大切な言葉が。
あなたと一緒なら。
そんな小さな、優しい声が。
だからこそ、そんなあなただからこそ。
俺の為にだけ泣き笑う方だからこそどうにかしたくて、どうしようもなく焦るのだ。
あなたのその声に、その想いに、その心にほんの僅かでも報いたいと、気ばかり逸る。
全てを捨て、俺の為にだけ此処に居て下さる方だからこそ。
決して一人にはせぬと、いつでも必ず傍にいると誓いたい。
言ってほしいのだ、たとえ心の中であろうと。
あなたと一緒なら。
その高く甘い声で。
「ではせめて、海か、山かでも」
「・・・あ!」
上がった嬉し気な声、チェ・ヨンは期待を胸にウンスの瞳を覗き込む。
「ある、行きたいところ!」
「何処ですか」
勢い込んだチェ・ヨンに向けて、ウンスは大きく言った。
「碧瀾渡!!」
「碧瀾渡」
選りによって開京から僅か数刻の碧瀾渡。
出来る限り遠くに行きたいと、この方は言っていなかったか。
チェ・ヨンは目を眇め、輝くウンスの顔を見る。
「イムジャ」
「うん?」
「何故、碧瀾渡に」
「理由はいろいろあるわよ」
まず第一はあなたの仕事の支障が心配。
私の為なら、どんな無理も押し通すのが心配。
長期休暇を取るために、あなたが無茶をするのがもっと心配。
覚悟するわよ、あなたの奥さんになるんだから。1つくらいは折れてあげる。
怖いって泣いて一時的に逃げて隠れてたって、未来は必ず来るのよね。
だったらどうにか考えた方がいいじゃない。建設的な方法を。
あなたに無理させる逃避行より、どうにかイ・ソンゲの気持ちを変えるか、やり方を変えるか、未来を変える方法を。
あなたがこんなにしてくれるんだから、私にだってさせてよね。
ウンスは得意げに立てた細い指をチェ・ヨンの鼻の前で折った。
「歴史的にも貴重な国際港だし、見てみたいと思うの」
次の指を折りながら、言葉を続ける。
「珍しい薬もたくさんあるらしいし」
三本目に折ったその指に、チェ・ヨンの眸が当たる。
「それに一緒に海も見られるし。 済州って言うのも考えたんだけど、この時代じゃ」
ウンスの声にヨンが首を傾げる。
「済州とは、耽羅郡の済州のことですか」
「よくわかんないけど、島よ。馬とみかんが有名なはず」
「蜜柑は存じませんが。牧子の居る、あの済州ですか」
「・・・多分?」
曖昧に首を傾げたウンスの様子。ヨンは太い息を吐く。
「先の世にも、済州はありますか」
「うん、国内では有名なリ・・・観光地、よ」
「現在は元の直轄地です」
「そうなの?」
「イムジャの仰る処が同じ済州であれば、確かです」
「そうなんだ・・・やっぱり駄目ね、あなたがいないと何にもわかんない」
もっと駄目になれば良い。俺無しでは駄目になれば良い。
そして一人で何処にも行けず、何も出来ずに探して欲しい。
呼んで欲しい。頼って欲しい。強い女でなくて良い。
どれだけ手が掛かっても良い。どれだけ甘えても良い。
俺の前でだけ見せれば良い。笑顔も涙も、あなたの全てを。
己ですら呆れ笑いが浮かぶ。どれだけ慾深いのかと。
どれだけ独占したいのか、どれだけ欲しておるのかと。
俺のものだと判っている。俺がこの方だけのもののように。
共に生涯を過ごす、魂の片割れと判っているのに。
幾度生まれ変わろうとこの方を探すと判っている。
必ず探し出して、再び巡り逢うと判っているのに。
それでも足りずにこの手に掴み、この背に回し、どの男からも隠し、俺の事のみ見ていろなどと。
金にも物にも地位にも興味のない俺が、力が欲しいなどと。
この方を護る為だけに、誰よりも大きな力が欲しいなどと。
馬鹿げている。戯言だ。
おまけに全て本音だから始末に負えぬ。
ウンスは鼻を突き合わせたチェ・ヨンの頬に手を当てる。
そして指先で優しく撫でて、その黒い眸を覗き込む。
今、とっても嬉しそう。何を考えてるの? 済州の事?
先の世界にもあったから嬉しいのかな。
あなたが守るこの世界が、私のいたあの世界を作ってくれた。
でもごめんねヨンア。
私がやろうとしてることはもしかしたらあなたの未来の名前や、伝説や、地位を変えるのかもしれない。
イ・ソンゲが李氏朝鮮を興す自体、変えてしまうかもしれない。
それでも構わない。きっとこの国は将来、碧瀾渡のペルシャ商人が呼び始めたみたいに、KOREAって呼ばれるはず。
コリア。それは高麗の事だから。今の私たちがこうして生きてる、この時代の国の事だから。
聞きたいの。本当に今、そこでそう呼ばれてるって知りたいの。
世界の誰も朝鮮とは呼ばないわ。コリア、高麗。
あなたの、そして王様の作った国の名が、世界の歴史に刻まれてくの。
ねえ、ヨンア。そんなワガママな私を許してね。
助けるためなら何でもする、どんな汚い手も使う私を許して。
ううん、許さなくても理解して。
いつもあなたの手を焼かせる、厄介な私を許してね。
あなたがいなきゃ生きていけない、弱い私を許して。
あなたの前では、絶対そんな風に見えないように努力するから。
心配かけないように頑張るから、見えた時には黙って見逃がして。
あなたに相応しい、あなたを支えられる、そんな女になるから。
あなたの足手纏いにならないような、強い女になるから。
チェ・ヨンの息が近くなる。 ウンスは微笑み、目を閉じる。
二つの鼻先を触れあわせ、息を交わして笑んだチェ・ヨンは、頬のウンスの手を己の掌で、逃がさぬように包み込む。
そしてそのまま首を傾け、細い手首に口唇をきつく押し当てる。
漏れたウンスの甘い息に押され、そこに濡れた白い歯を立てる。
全て齧ってこの裡に取り込み、己の一部に出来たなら。
全て与えてその裡に入り込み、この方の一部になれたなら。
どうかしている。傷つけたいわけがない。
そんな事になれば、己が誰より我慢できぬものを。
星すら覗かぬ墨夜のせいか。夏の暑さでやられたか。
丹田に気を込め息を吐き、最後に小さな体を引き剥がす。
あのまじないを今一度、心で唱えて目を瞑る。

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着々と 決まって行くのに…
一度は お試しをって 思ったのに
偉いわね また我慢しちゃって…
でもでも もうちょっとかな?
今、 一番ツライ修行中ですね。
でも 一緒に居られるから しあわせよね。
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ヨンが、素敵過ぎる。キュンどころか、ズッキューンが連発‼これはもう、ヤバい。
まだまだ甘くなるのかなー?
本格的な戦になる前だから、沢山甘くいて欲しいな。
さらん様、期待してます☆
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さらんさん、今宵も甘い甘いお話をありがとうございます❤︎
私もウンスが切望するとおり、イソンゲとヨンは関わらせたくないな~と思います。
…が、おそらくさらんさんは史実を変えぬままに、充実した密度の濃い二人の日々を描いていかれるのではないでしょうか。
などと、いろいろ想像しては、嬉しい裏切りも期待しています。
さらんさん、雨が強くなってきました。
お気をつけて下さいね。