2016 再開祭 | 桃李成蹊・20

 

 

此度は良い。愛する女人を初めて見た眸を思い出す機会を貰った。
しかしどうする。

もしも初めて愛した女人を喪った時を思い出せと言われたら。
信じる師や朋を眸の前で亡くした時を思い出せと言われたら。

この手で守り続けた主君を殺めた時を思い出せと言われたら。
尊敬する父、愛する母を亡くした時を思い出せと言われたら。

あのれんずの向こうにこの方でなく、あの初めての出逢いでは無く、最悪の光景が。
メヒの冷たい体が、隊長の赤い涙が、トルベの笑みが、慶昌君媽媽の最期の息が浮かんだら。
父上を亡くした夜に漂っていた月桂樹の香、母上を亡くした幼い夏の足許に揺れる葉影を思い出したら。

そんな傷を幾度も抉られ、心を穿たれる事が芝居なら。
ならば俺は金輪際あのれんずを見つめる事など出来ん。

それでも過去を許せと言うなら。思い出して乗り越えろと言うなら。

どうする。

心から愛し求める魂の片割れを喪う時を考えろと言われたら。

その惨楚を舐める前から魂を引き裂く痛みを味わう事になる。
考えたくない事を考えろと眸の前に付きつけられる事になる。

過去ならば許せても、決して望まぬ未来を考えろと言うなら。
それが芝居だと言われるなら、俺には芝居など絶対に出来ん。

出来るのはあの男を模し、密偵の要領で露見せぬよう周囲に気を張り巡らせる事だけだ。

あの男。真直ぐ伸びた夏の青竹のようにしなやかな佇まい。
影も歪みも曲がった処も無く、恐らく立ち上がれぬ程の闇の中には立った事など無かろう男。

奴は一体どうやって、この息も止まる程の苦しさを乗り越えている。
それとも役者というのは全て、その苦しさの中で生きて行けるのか。

「俺には出来ません」
「出来ないって、ヨンア」
「奴の振りは出来ても、芝居は出来ません」
「待って。落ち着こう。落ち着いて考えよう?ん?」
「考えました」

考える程にあの男の痛みを、己のもののように感じる。
小さな癖まで己のものにしようと、必要以上に近寄り過ぎたからか。

高麗で求められる芝居や嘘とは格が違う。
目前の敵の眼を晦ます類のものではない。
方便や名目の許、必要に迫られた嘘ではない。
最初から仕組まれた嘘を生きろと言われたら。

あの男はそれでも何処かで、本音を吐く事が出来ているのか。
偶さか同じ顔を持つあの男にも、誰かが傍に居てくれるのか。

無事の帰りを祈る心、総てを赦し癒す天の技。温かく抱き締める腕。
明るい道を示し、背を押し、自らの犠牲すら厭わず、笑って己を捧げてくれる女人。

騙そうが隠そうが眸が先に追い掛け、心が先に走り出す。
もしも喪えば己の息は止まり、心が千切れると知っている。
それでも時の輪廻の中で必ず探し出す、再び巡り逢うと知っている女人。

そんな女人が一人いれば、案外耐えられるのかもしれん。
黄色い声を張り上げる観衆にも、何処にいても向けられるれんずにも。

俺のそんな困った女人が、寝台の上で此方をじっと見る。
そうだ。判っている。どれ程突き放そうとも結局勝てる訳が無い。
全戦全勝と謳われる俺が戦う前に白旗を上げるのはこの方だけだ。

「戻れば奴と話します」
「じゃあ少なくてもここにいる間は、今まで通りなのね?」
「身代わりを降りるが先か、天門が開くが先か」
「悪いけど天門が先なら帰らせてもらうわ。2人で帰ろう、絶対に」

意外な声に首を傾げる。この方は此処に残りたいかと思っていた。
此処での暮らしの足掛かりに、奴の身代わりを引き受けたのかと。
「帰るのですか」
「急になぁに?当たり前じゃない、ずーっとそう話してたでしょ?まさかヨンア、もしかして帰りたくなくなっちゃったとか?!」

そうでないなら何故好んで、こんな厄介事に首を突っ込んだのだ。
あの再会の夜、最初はこの腕の中で怒りに髪を振り乱し、奴らに喰って掛かったこの方が。

「何故、身代わりを引き受けたのです」
「・・・え?」
「借りがあった訳でも無い。寧ろ強引に連れ去られ」
「思い出したからかな。同じ顔だったせいで」

問い掛けにあなたが困ったように笑む。
その温かな指が探すよう、寝台の上でこの指先を握る。

「最初に会った時のあなた。私が刺した後、意識を失ってベッドで呼吸が止まったあなた。
自暴自棄で弱り切って、どうなってもいいって思ってたあなた。もう帰って来ないんじゃないかって怖くなった。
あなたしかいないのに。頼れるのは、帰してくれるのはあなたしかいないのにって思った」

そこまで一息に告げると顔を伏せたあなたの、細い笑い声がする。

「本当はもう始まってたのかもしれない。心の中で芽が出てたかも。そこから葉っぱが伸びて花が咲く、最初の小さな小さな緑の芽。
そんなの知らなかった。だから何度も傷つけた。間違った方法で、素直じゃない言い方で。もうイヤなの。あなたが傷つくのがイヤ。
傷つけるのもイヤ。私がもっと早く気付いてれば、いくらでも助ける方法があったはずなのに。
ミンホさんはあなたじゃない。ただ偶然同じ顔の赤の他人。だからこれはただの私の勝手、自己満足の贖罪よ」
「・・・判りました」

この方だけがそう言ってくれる。俺は俺だと。奴では無いと。
そして幾度も怖がる。別人であろうと傷ついて欲しく無いと。

同じ顔で良かったな。俺もお前も救われる。心もそして体も。
何処までも他者の事だけを気遣い、抱き締め癒し続ける方に。

そんなこの方こそ、誰より抱き締められ癒される価値がある。
だから己の腕を伸ばす。その役を俺にしか求めぬ方だからこそ。
誰にでも身を任せる女ならば要らぬ。例えどれ程良い役者でも。

抱き締めたままで体を倒せば、柔らかすぎる寝台が重みで沈む。
これ程柔らかければ要らぬと知っていながら、この腕枕は外さない。

例え雲の上に寝る機会があったとしても俺は屁理屈を捏ねるだろう。
この方を手放さずに済むならどんな手段も口実も名分も遣ってやる。
「あ、今分かった」
「何ですか」

突然聞こえたその声に、思わず顔を覗き込む。
柔らかく灯った枕元の光の中、火膨れた肩の痛みも忘れたように、満足気にこの胸に身を委ねる笑顔を。

「天国なのはこの島じゃなくて、”あなたがいる”島だった」

腕の中の嬉し気な呟きに、意味が判らず首を傾げる。
些細な事は判らずとも良い。今、俺のあなたが心から嬉しそうだから。

 

 

 

 

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