2016再開祭 | 竹秋・伍

 

 

あなたと並び歩く春月夜の道。
こんな話さえなくば、遠廻りをしたい程に美しい朧月。

それでも今の己の胸裡は、美しいとは程遠い。
黒さだけが夜空と同じ色だ。いや、もっとずっと黒い。

名を呼ばれたいのか。俺以外の男に。

不機嫌なわけではない。ただ決して愉快でもない。
例え相手がヒドだとしても、これだけは如何しようもない。

そしてヒドが呼ばぬ理由が、朧げながら判るからこそ。
恐らく。

横でこの顔を伺う方の小さな手を握り、真直ぐ宅への夜道を急ぐ。

恐らくヒドは、この方の名を呼ぶには俺に近過ぎるのだ。
俺の唯一人の女人と知っているから、敢えて呼ぶのを避けている。
俺の気の短さも悋気持ちなのも、誰よりもよく知っているから。

名を尋ね、そして呼ぶ事で、繋がる何かがある気がする。
名を知らねば、知っても呼ばねば互いの間に距離はある。
呼ぶ事で互いの間の垣を払い、その相手との距離を縮める。

俺自身が滅多に呼ばぬくせに誰かが呼べば腹を立てると、知っているから避けている。
判っている。悔しいなら呼べば良い。ウンスと呼べば良いだけだ。
名を呼んでこの方が怒る訳など無いのを知っている。
そしてこの方が呼ばれたがっているのも知っている。
だからこそ典医寺では侍医も医官も薬員も、皆がこの方を名で呼んでいる。
この方が倒れたあの時に、侍医からも言われている。

名で呼んで欲しいとおっしゃった、自分の名を忘れそうだからと。

それでも俺には特別過ぎる。口にする度に思い出す。
あの夜。
慶昌君媽媽の謫居される江華島へ向かう山中、初めてその名を教えてくれた夜。

ウンスっていうの。ユ・ウンス。

その名を舌先に転がして、声に出さずに呟いた。
あの夜、そしてあそこから始まった日々の総て。
この手で絶った命の重さ、髪に挿された黄色い花の鮮やかさ。
そして遠廻りの末に辿り着いた心も知った想いも、全てその名に結びつく。

ユ・ウンス。

奇轍から奪い返す方便として口にした。
好いた女人が連れ去られ、居ても立っても居られずに伺った次第。
まさかあの一言が本当に己に起きるなど、あの頃夢にも思わずに。
如何して良いか判らずに、居ても立っても居られない時が来るなど。

だからこそ口にする度、未だに戸惑う。
心でだけ、声に出さずに呼ぶ事に慣れている。
あの時寝台で寝むあなたに頼んだ。時にはヨンと呼んでくれますか。
そしてあなたは俺が願った通り、いつでも名を呼んでくれるのに。

呼ばれたがっている事を知っているのに、その響きが大切過ぎて。
その名を呼ぶたび心の奥で、互いの何かが確かに繋がる気がして。
だから滅多な事では呼べない。そして本当に大切な時に呼びたい。
それでも典医寺以外の者が呼べば、もしこの方がそれを許せば、絶対に抑えが利かぬ。
「ウンスヤ」

久方振りに呼べば、この掌を握る手に力が籠る。
「なあに?」
朧月の許、その顔が昼の陽を受けたように明るくなる。
「どうしたの、ヨンア?」

そうだ。俺以外の誰かとあなたが繋がる事など我慢が出来ない。
「・・・俺だけが呼べば良い」
何処までも狭量な悋気に瞳を丸くした後、あなたは微笑んで頷いた。
「うん。あなただけが呼んでくれれば、それでいい」

月の許、機嫌良さそうに繋ぎ直す小さな掌。
真冬程には冷たくない指先は、握る必要などないかも知れん。
春の宵、それでも風は冷たいから離せない。
こうして温めている振りで本当は、温められているのは俺なのに。

この方の指の温かさは、俺だけが知っていれば良い。
そう思いながら強く握り直した小さな掌から奪う熱。
与える振りで奪っている。護るつもりで護られてもいる。
誰も知る必要は無い。あなたの事は俺だけが知っていれば良い。

固く繋いだ手を揺らし、あなたは楽し気に小さな声で笑い続ける。

俺達の後、月の伸ばす影と一緒に柔らかな笑い声がついて来る。

 

 

 

 

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