「思ったのです」
二人でしゃがみ込む侍医へと寄ると奴は立ち上がり、歩き出しながら何方にともなく言った。
「チェ・ヨン殿がいらっしゃることを予想していたのでは」
「遍照がか」
「恐らくは私と共に訪れたウンス殿を見て」
侍医は考えつつ、ぼつぼつと言葉を落とす。
「遍照様は、ウンス殿と徳興君の因縁を御存知でしょうか」
「恐らく」
委細は俺の口からは伝えていない。
それでも鼠と四六時中共に居れば、奴から吹聴されている事はあるだろう。
「ウンス殿がチェ・ヨン殿の奥方と知っているのですか」
「ああ」
一度だけすれ違った事がある。
王様への拝謁の折。あの時遍照は自信に溢れた様子でこの方の気を惹こうとした。
他の尚宮達に笑いかけたような、あの不遜な態度で。
そして全く靡かぬこの方に肩透しを喰らい、呆れたように息を吐いた。
「因縁のある徳興君の許へ、いつもは来ぬウンス殿が来た。ならばチェ・ヨン殿も追々来るだろう。
衝立を立て、徳興君を崇拝するような素振りで点を稼ぎ、信頼を得、チェ・ヨン殿がお怒りなのでもう衝立は立てられぬ・・・と。
ウンス殿と徳興君の因縁を知るなら、目塞ぎをされればチェ・ヨン殿が激昂するのは分かっていた筈だ。
そして衝立の中には私もいるのだから、 徳興君が何か出来る筈もない。誰にも危険はなく、損もしない・・・」
並びたてられた侍医の仮説。
今までの経緯を思い返し、俺は呟いた。
「偶然とは考えられんか。偶さか此度、衝立を立てた」
「今まで医官の診察で衝立を立てたと聞いた事はありません。無論、私が診察に行った折にも。
これまでと違ったのは、ウンス殿が診察に立ち会った事だけです。
此度急にそんな事になったのは、ウンス殿が関わっているとしか思えない」
侍医は懐手、独り言のように呟きながら歩を進める。
その推量に頷きながら舌を巻く。
侍医も侍医なら、あの遍照も遍照だ。
可能性は高い。寧ろその推量に破る穴が見つからん。
だとすれば遍照は既にこの方の顔を憶えている。
そしてこの方を見つけた瞬時、計略を立て実行に移した。
逆に侍医は診察をしながら、遍照のその計略を見抜いた。
「侍医」
「はい」
「大した参謀だ。迂達赤に来るか」
冗談のような声に侍医が噴き出し首を振る。
「以前言ったでしょう、私は武技には縁遠い。お貸し出来るのはこの智慧の詰まった頭だけです」
「心強い」
「ええ、頼って下さい」
「随分な自信だな」
侍医は嬉しそうに、其処から霞む春空を見上げて言った。
「生来こうです」
そして目を戻し、俺を真直ぐ見つめて言った。
「狙いは判りません。ただ徳興君も、そして遍照様も知らぬ、もう一つの因縁が此処にある」
その因縁とは自身の事だとすぐに判る。
「いわば隠し玉です。私には然程警戒はしていない筈だ。目を光らせておきましょう」
「・・・ああ」
頷いた俺に満足そうに目を細め、侍医は頷き返した。
*****
「ウンス!!」
小さなお体で地にしゃがみ込み、じっとそこを見つめていた姫様が何かを見つけて腰を上げ、高い声でウンス様に呼びかける。
ウンス様は少し離れていた地面からお顔を上げて、姫様の御声に
「はい、キョンヒ様?」
そう言って大護軍様とご一緒に、ゆっくりと姫様の元へ歩まれる。
先だっての春雷が収まった後、野の草花は見る見るうちに伸びた。
旦那様のお屋敷の庭師達も冬の間の雪降ろしが終わり、今はお庭の雑草刈りに追い立てられている。
姫様は庭師たちの慌ただしく行き来するお庭の中、お部屋の窓外のお気に入りの連翹越しに門から繋がる途を見ながら
「チュンソク、遅いな。忙しいのだろうか」
そんな風に御邸へ訪れる刻が日に日に遅くなるチュンソク様を、お気遣いになっていらっしゃる。
「庭師の目に触れますから、お外ではなくお部屋でお待ちください」
ある日お願いした私に、少し不満そうに唇を尖らせたものの
「うん、わかった」
そうおっしゃり、姫様は頷かれた。
以前ならば駄々を捏ねて、私の諫言に癇癪を起こしておられた筈。
チュンソク様にしがみ付き、もっと早く来いとおねだりされた筈。
チュンソク様のお顔を見るまで夕の御膳を召しあがられないのは相変わらずで、私や母の気を揉ませるけれど。
それでもチュンソク様が御戻りになれば、御一緒にしっかりと夕餉を済まされる。
私の姫様は、本当にこの春に開く花のよう。
みるみる大人の女人になられ、御婚儀を前に本当に美しくなられた。
姫様が変わられるわけでも、チュンソク様に奪われるでもないのに、それでもこうして御二人が並んで笑い合う姿を見れば胸が詰まる。
いつもハナ、ハナと呼んで、本当に妹のように私の後をついて歩くにもこの手を握り、眠るにもこの手を握っていた姫様が。
あのお小さかった姫様が、今はチュンソク様と見つめ合われ、初々しく頬を染めて笑う。
「は、ハナ殿」
少し離れて姫様を見ていた私の横、そんな呼び声がする。
「・・・はい?」
振り向くと、チュンソク様と大護軍様と共にいらした背の高い若い方が私をじっと見ている。
「何か」
「いえ、あの」
「どうかなさいましたか」
この方のお名前が出て来ずに、どうにか思い出そうと頭を捻る。
「・・・と」
「はい!」
この方が高い腰を折り、私の方へとほんの少しだけ前屈みになる。
「ト」
「はい」
「・・・失礼しました、御名を今一度」
「と、トクマンです、ハナ殿」
お名前さえ出て来ない私に怒るでもなく、この方は教えて下さる。
「トクマン様」
「はい!」
ただ儀礼的に繰り返した私に、トクマン様が大きく頷いた。
「何度でもお聞き下さい。トクマンです」
どこまで本気でおっしゃっているのか。笑いながら繰り返す声に、私もつられて頷いた。
「はい」
もう覚えたのに、何度も。
「トクマン様、ところで」
「はい、ハナ殿!」
「何故、ずっと荷をかかえておられるのですか」
「え」
トクマン様はそこで初めて、両手に抱えたままの荷に目を落とす。
「あ。あの、俺は今日は荷物持ちで」
「はい」
「なので、荷を」
「・・・草摘みの間は、置いておかれれば良いのでは。御手が塞がって不便ではありませんか」
そう言いつつ荷を確かめて、その荷が私の物だと気付く。
「荷物持ち、ってそれは」
「あ、はい。ハナ殿の荷です」
「私の荷物持ちではないのに」
「いえ、俺は今日ハナ殿の荷を持ちに」
「結構です、何処かに置いて下されば」
「いえ、それは、汚れますから」
「でも重いでしょう。昼餉が入っておりますのに」
「ええ、ですから、虫や獣が寄って来てはいけないので」
「でしたら私が見張ります」
「それは駄目です。刺されたり、万一獣でも来れば」
「私は大丈夫ですよ、強いですから。木に登って逃げようとする ひ・・・お嬢様を、何度も掴まえてきましたし」
「え?」
「そうなんです。お嬢様はあんな風に可愛らしく見えても、意外とお転婆なので」
「・・・はあ」
「今はチュンソク様のおかげで、本当に大人になられて」
「そうでしたか・・・」
「はい」
ウンス様と共に地に膝をつき、何かを楽しそうに眺める姫様。その姫様の横に護るように立つチュンソク様。
ウンス様の脇に 腰を屈める大護軍様。
少し離れた木の下には、大護軍様のお連れになった別の若い方と、ウンス様の典医寺の御友人が肩を並べていらっしゃる。
空高く、春を告げる雲雀が鳴く。
「ハナ、ちょっと来て」
可愛い妹鳥が、その声で高く呼ぶ。

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