春草摘 ｜ 福寿草・2

「イムジャ」
暗い寝室であなたが背中から、低い声で呼びかける。

「･･･お寝みですか」
その声に、素直に振り向いて笑えない。
自己嫌悪の塊だわ。私って最悪。ごめんねって素直に言えない。
こんな風に考えるのも気虚なのかしら。

どう考えてもダメ。ああ、きっとあるはずよね。漢方薬だって。
でもなんて相談する？
PMSでほんのちょっとしたことでイライラする、落ち込むんだけど どうしたらいいかなって？
トギになら言えそうだけど、キム先生には言えない。
ましてこんな風に八つ当たりしちゃったあなたに、女性特有の症状だから理解してって？
言い訳に聞こえるだけだわ。あんな最悪なことを言った後で。

あなたのせいで、気分が悪いのよ。

その瞬間のあなたの傷ついた顔。
見た瞬間に、ごめんねって抱き締めて泣きたくなった。
私が悪かったの、本当はそんな事全然思ってない。だけど女性の体だから言われても理解してって？

私が逆に言われたらどう思う？ふざけるなって怒鳴りたくなるわ。
それに毎月あんなふうになるわけでもない。
PMDDほどひどくなれば別だけど、21世紀にだってなかなか理解されるのが難しかった症状なんだもの。

毎月そうなるわけじゃないから、未病の漢方で抑えるのも難しい。
症状が出てから薬でどうにかしようとする、西洋医学の悪い癖。
そんな即効性のある薬、今の高麗にはないのに。
気付いたらなるべく早く薬湯を飲むこと。
一定期間続けて飲んで一旦脈診を受けること。
理屈では分かってるのに、この人には口を酸っぱく言ってるのに、自分の事になると全然考えないだらしない私。

「･･･イムジャ」
この人はきっと分かってる。背中を向けた私が目を開けてる事。
だけど今はダメ。何か話せばきっと事態がこじれる。
自分自身がイライラしてるって分かってるんだから。
それもあなたに説明できないような症状で、あんな風にイヤな言い方して。

それなのに約束通り、こうやって一緒にベッドに横になってくれる。
背中を向けたまんまの私に、そっと寄り添ってくれる。
どうしたらいいか分からないみたいに、大好きな大きな手のひらがゆっくり背中にかかる。

そうやって優しく触れられて、泣きそうになるのも気鬱かしら。
でもいつもと違う。ベッドの2人の間に、少しだけ距離がある。
その隙間を超えて来てくれない。髪に顔をうずめてもくれない。
まるで2人の気持ちの間に、その分だけ隙間が空いたみたいに。

あの時さらったみたいに、抵抗なんて出来ないように、暴れる私を無理に抱き締めてくれたらいいのに。
怒鳴ってくれたらいいのに、俺に関係ない事でバカみたいなワガママ言うなって。

背中をなでてくれた、何より大好きな手のひらがそっと離れていく。
その腕がベッドの固いシーツをこする音だけが、静かな寝室に響く。

眠っていない。
俺を全身で拒むように此方に向けた小さな背も、その細い肩も。
何かをこらえるように息を繰り返しながら、小さく動いている。
「イムジャ」

この呼び掛けに応えぬのがあなたの答か。
「･･･お寝みですか」
判っていながら一縷の望みをかけて問う。

眠っている時とは違う。
健やかな緩い動きも温かい寝息も、この腕と胸が知っている。
無理にでも今振り向かせるか。何かを叫べばその唇を塞ぐか。
二度と先刻のよう一人で歩き去るなと腕の檻に閉じ込めるのか。
赦される訳が無い。妻となろうと、この方は罪人ではない。
俺の勝手で、この慾だけで、奪って攫って良い方ではない。

「･･･イムジャ」

こうして背を向け拒まれていても、それでも触れずにいられない。
この方がおっしゃった意味がよく判る。どんなに喧嘩をしても共に眠ろうと。
抱き締め合って息が交われば、たいていの揉め事はうまくいく。

それとも本当に俺のせいだからか。
役目ばかりに気を取られ、この方を蔑ろにしたのか。
少なくともこの方がそう思う何かがあったか。

あなたのせいで、気分が悪いのよ。

始めは礫だった筈の叫びは、今は鞭となる。
幾度も耳奥で繰り返し響き俺を打ち据える。

振り払われん場所は何処だ。
そっと触れても驚かせず、この方を落ち着かせられる場所は。
息を殺し硝子細工に触れるよう眸の前の細い背に掌を当てる。

当てた刹那にその背は、拒絶と懇願に揺れる。
触れるなという事か。
そう思えばこの隙間が隔てたあなたへ伸ばしたい腕の勢いは止まる。

双身の間の寝台に月が落とす影すら恨めしい。
桜鼠色の細い影の分だけ、あなたを見失ったようで。

静かに降ろす掌に、寝台の敷布が音を立てる。
その乾いた冷たい音が、この心の中にも響く。

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