御二人の退室した扉の閉まる音を聞きながら、自由になった両手でキョンヒ様の頬を包む。
「責任を取って下さいますか」
「責、任」
「はい」
早春の溶ける氷柱のように零れ続ける滴を両の親指の腹で拭い、黒く丸い目を覗き込む。
「取る。どんなことをしても、取る。本当にごめんなさ」
「ではまず、泣かんで下さい」
「・・・うん」
覗き込む顔の中キョンヒ様が泣き声で切れた息をこらえ、懸命に唇を真一文字に結ぶ。
「笑って下さい」
お伝えすると、桃色の唇の両端が不器用に上がる。
柔らかな頬をこの手で包んだまま、黒い目へお願いする。
「春のうちに、婚儀を挙げましょう」
「え」
「夏は衣装を召すには暑い、秋では大護軍の慶事と重なります。冬の婚儀は冷えるでしょうし」
「・・・チュンソク」
「疵ものの我儘を、聞いて下さい」
迷いながら、躊躇いながら進んで来た。この方を倖せにできるのは、本当は俺ではないかもしれん。
金も家柄も力も名誉も、俺より優れた男は山程にいる。それでもこの方を譲ってしまったら悔いる。
俺ほどにこの方を想える男はいない気がするのだ。そしてこの方が、こうして泣くような気がする。
俺以外の男では、泣いてしまわれる気がするのだ。
頭で考える前に体が動くのだから。
考えて考えて、それでも足りずにまた考える俺の体が考える前に動くなら、もう遠慮している場合ではないだろう。
「お一人で草を覚える事はありません。一緒に覚えましょう」
「・・・うん」
「あなたが無事ならそれで嬉しいのです。泣かないで下さい」
「・・・うん」
「先に生まれて、もう十分待ったので」
「・・・うん、うん」
両掌で包んだ頬を新しい涙で濡らし幾度も頷く頭ごと、考える前に胸へ抱え込むと、キョンヒ様は火が付いたよう大きな声で泣き出した。
「ヨンア」
二人で佇む連翹の前、敬姫様の部屋の窓から漏れる泣き声。
この方が居ても立ってもいられぬように小さな爪先を動かす。
その沓の下、音を立てて玉砂利が鳴る。
これならチュンソクも、不審な者の侵入を見つけ易かろう。
儀賓大監の御屋敷は門こそ衛兵で固めているが、この眸から見れば彼方此方に警備の穴がある。
己の立場で口出しは出来ん。婚儀の前にそれとなく伝えるか。
そんな思いを胸に、御部屋からの敬姫様の声を聞く。
皇庭の回廊で血相を変え、俺を追い抜き走る奴を見た。あの時からこんな日が来ることを知っていた気がする。
考えて考えて、考え抜いてまた考える男が。礼儀と序列を何より重んじ、俺の脇を務めていた男が。
「戻るわ。チュンソク隊長もあんまりよ、怪我するだの、疵ものだの。
キョンヒ様は慣れてない。まだ若い温室育ちのお姫様よ。あれじゃ可哀想だわ、あんなに泣いて」
「大丈夫です」
「だって」
「大丈夫です」
奴がしくじる訳が無い。あれ程慎重な男が。
考えて考え抜いた上、きっと最良の答をお伝えした。だから敬姫様もあれ程泣いておられるのだろう。
この方は断言した俺に訝し気な目を当てる。
女人には判らん。慎重な男が決意した時、それがどれ程強く深い意味を持つのか。
奴なら大丈夫だ。腰は重いが決めれば動く。その男がああして動いたならば、あとは二人の領分だ。
「どうしてそんな風に言えるのよ。もし悲しくて泣いてたら」
この方も、詳しくなったのはやはり薬草の事だけなのか。
もしも敬姫様が悲しさで泣いているならば、俺達の前にハナという侍女がすぐに駆けつける筈だ。
「馬に蹴られます」
「え?」
門外漢の俺達は、此処で連翹を眺めていれば良い。
走り出さぬように抱いた細い肩を連翹の方へ向け、俺はこの方の横顔を盗み見る。
チュンソクを慕う敬姫様の半分でも、この方が手放しで俺を頼って下されば。
そんな己の高望みを笑うように、風に吹かれた連翹が揺れる。
*****
「どういうことですか!」
吹抜に踏み込んだ途端。響き渡る大きな叫び声に歩を止める。
「テマナから聞きました、大護軍と医仙が儀賓大監のキョンヒ様のお邸へお出掛けになったと。
どうして俺に声を掛けて下さらないんですか、隊長も大護軍も!!」
走り寄るトクマンの顔色を変えた抗議の声に、思わず横の大護軍へ眼を投げかける。
大護軍は我関せずと言った様子で首を振ると、無言のままで踵を返し私室への階を足早に上がる。
「て、大護軍!」
背を追いそうな勢いのトクマンの足をひと睨みで止め、大護軍の後からテマンが身軽に階を駆け上がって行く。
追う背を逃したトクマンは階の上、大護軍が消えていく私室を見ていた目で、次に振り返り俺を見る。
「酷いじゃないですか、隊長!!」
「何がだ」
「ハナ殿に逢いたいとお伝えしましたよね」
「そうだったか」
「そうですとも!」
トクマンは額に焦りの汗を浮かべて言い募る。
「大護軍は医仙と御婚儀、隊長はキョンヒ様と御婚約で、まさかご自分が倖せなら俺の事はどうでも良いなんて思ってないですよね」
「ああ」
思う訳が無い。守りたい者なく戦場に立てる兵はおらん。
大護軍を心から信じ大切に思うからこそ、俺達は大護軍に従いて行く。
それは大護軍が俺達と同じだけ、俺達を大切に思って下さるからだ。
誰も死なせんと。全員生きて帰す、倖せな場所に戻すと。
そんな場所に共に戻る仲間だからこそ、仮初の平穏も共に過ごす。
「トクマニ」
「何ですか」
「お前、春草摘みに興味は」
「女子供のする事でしょう」
臍を曲げたトクマンは、吐き捨てるように言った。
「そうか」
「はい」
「それは残念だな」
奴の返答に頷くと、早春の眩しい陽の射し込む天窓の下を歩き出す。
「医仙と大護軍と春草摘みに行く」
「・・・はあ」
俺の背に一歩遅れ、つられるようにトクマンが付く。
「キョンヒ様もお誘いした」
「え」
「ハナ殿にも御伴をお願いしたが、そうか。トクマニは来んか」
「隊長」
「そうだな。何しろ草摘みなど、女子供のする事だからな」
「て、隊長!!」
己の私室に戻る吹抜からの途、トクマンが俺の歩みを塞ぐよう前へ回り込む。
「何ですって」
「いや、気にするな。大護軍には俺がお伝えする」
「ハナ殿が、草摘みに」
「女子供のする事だからな」
「隊長!!」
俺の両肩に手を掛けようとしてようやく思い留まり、トクマンが両の拳を握って目の前で深く頭を下げる。
「つ、連れて行って下さい」
「お前は男だ、女子供ではないだろう」
「撤回します!すみません、本当に申し訳ありません」
仮初でもこのうららかな春のうちに。連翹の花の散る前に。
草を摘もう。そしてこいつも守りたいと願う誰かに出逢えれば。
「荷物持ちでも、もう何でも。何でもしますから隊長」
「その言葉、忘れるなよ」
いい加減意地の悪い事を言うのにも疲れ、俺は笑んで頷いた。
【 春花摘 | 連翹 ~ Fin ~ 】

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。

コメントを残す