遑【終章】 | 2015 summer request・vacation(ドチver)

 

 

そうしてお連れした元の魏王の宮中で、大君媽媽の御姿が消えた。
まるでかき消えたかのように。ほんの僅か、私が中座した隙に。
「大君媽媽!」
控えの御部屋から駆け出て見慣れぬ回廊を駆け抜けながら、声を限りに叫ぶ。

「媽媽!いずこに!!」
まさか此度の慶昌君媽媽の封冊で、媽媽が邪魔になったのか。
もしや騙し討ちで此処まで呼びだし、媽媽に何かするつもりか。
いえ、そんな事があるはずはない。

今媽媽に何かあれば高麗の王家の正当な血筋が途絶えてしまう。
庶子として残る方はまだいらっしゃるが、王様の直系の血脈が途絶えてしまうのだから。

どれだけ高麗が元に隷属しようとも、むしろ隷属するからこそ。
王家直系の血脈を尊重する事は元にとっても大義になるはず。
御し易い幼王を立て続けるからと言って、慶昌君媽媽に男子が産まれるまで待つなど、そんな悠長な事を考えるわけもないはず。
「大君媽媽!!」

元側の手でなければ、大君媽媽御自らがお決めになり、御隠れになったのだろうか。
まさか今日設えた、魯国大長公主様との御顔合わせがそれ程にお気に障ったのだろうか。
チョ・イルシンの奸計に乗り無断でここまでお連れしたのが、それ程にお厭だったのだろうか。

私はなんと愚かな事を仕出かしてしまったのだ。この命など、幾つ差し出しても償える事ではない。
媽媽に何かあれば、大切な大君媽媽を見失ってしまったら、私の命の千や萬で償い切れるものではない。
「媽媽、大君媽媽!!」

その時回廊の端、見慣れた大君媽媽のお召し物の裾がちらりと横切った気がして、私は急いでそこへ顔を向ける。
「ドチ!」
回廊の影から、媽媽が小さく私をお呼びになる。
すでに走り過ぎて震える膝をどうにか堪え、媽媽の御許へと前のめりに駆けつける。
「媽媽!!」

媽媽は続けて叫ぼうとする私を御目で制し、小さい声で私に向け急いだご様子でお告げになった。
「ドチ、聞いてくれ。此処から連れ出したい人がいる。お前も手伝ってくれまいか」
そうおっしゃり急いで小走りに回廊を抜ける大君媽媽の後に従き、私は慌てて走り出した。

「ここだ」
媽媽がひとつの御部屋の格子戸を、音高く開いた。

しかしその御部屋の中、媽媽のおっしゃる方はおろか、息する気配は何も感じられない。
ただ窓からの陽射しが伸びる床に、ひらりと動くものがある。

媽媽の御目が動くものを捉え、その御指が床に向けて伸ばされる。
大君媽媽の高貴な御膝を屈め、御手で床のものを拾うなど。
慌てた私が先に屈もうとするのを制し、媽媽の手がその薄い布を静かに拾い上げ、御言葉の無いまま御手の中に、強く、きつく、握りしめられた。

 

*****

 

魏王様が何をお考えなのかは分からない。
ただ大君媽媽に一切のお咎めがなかった事は、真に幸いだった。

御顔合わせすら台無しにしたのに、魯国大長公主様との御成婚は、何故か滞る事無く執り行われた。

媽媽が御婚儀に異をお唱えにならなかった理由は、唯一つ。
元の魏王のご息女を娶られれば、高麗を治める大義が出来る。
たとえどのような形でも高麗へと戻り、祖国を立て直そうと、きっと御心に決めておられるはずだ。

最初は心から安堵した。
チョ・イルシン殿の言葉によれば、これで大君媽媽が沈む事はない。
どうにかそう、自身を鎮めようとした。

しかし日が経つほど、不安が大きくなっていく。
大君媽媽の深い嘆息をお聞きし、憂鬱な御顔を拝見する度に。

本当にこの婚儀は、大君媽媽の御為になったのだろうか。
妃となられた公主様と御心を通じ合わせようとされない媽媽は、公主様とのお褥の枕は疎か、御言葉すら交わす事がない。
まるで存在する事さえ御目に入らぬように、何処ですれ違っても全く無視して、そのまま通り過ぎられる。

そして大君媽媽のそんな御振る舞いにお怒りになるのではなく、何故か哀し気に媽媽の背を送られる公主様に、確かに何処かで御目に掛かった気がする。

今の大君媽媽はいつも冷たい御目で、気難しい御顔で、お一人で窓の外ばかりをじっと見詰めておられる。
笑う事をお忘れになった、お小さかった私の大君媽媽。

春霞の中を、夏雲の中を、秋の夕暮れを、冬の冴え凍る空を一羽で渡る鳥を見つめるたびに思う。

私には何も出来ない。ただ祈るしかなかった。このご成婚が、どうにか効を奏するように。
これ程辛い思いをされている大君媽媽が、このままで良い筈が無い。
媽媽が空を行くあの鳥のよう、翼を得られたと信じるしかなかった。

 

 

 

 

そして二年の後、ようやく運命の時が訪れた。
迂達赤二十余名を従えた隊長のチェ・ヨン殿と共に、遥々江陵宮へ届いた、待ちに待った高麗よりの報せ。
「チェ・ヨン殿は、高麗の王様を、お迎えに来て下さったのですね」

チェ・ヨン殿御一行が江陵宮へ到着した夜。
私は大君媽媽へと、震える声でお伝えした。

迂達赤隊長チェ・ヨン殿。
無表情な黒い目で此方をじっと見るあの方が運んで下さった報せさえ本物なら、どれ程不機嫌そうでも構わない。
あの目で睨み殺すとおっしゃるなら、私の命など幾つでも捧げよう。

大君媽媽、いえ、そうお呼びするのは今宵が最後だ。
「・・・・・・王様」
御部屋の中で揺れる燭台に照らされ、物思わし気な御顔の媽媽を、私は初めてそうお呼びする。

大君媽媽でいらした、お小さかった私の祺様。
生まれた御日よりそうお呼びするのをお待ちした祺様。
長い長い年月を経て今、高麗にようやくお帰り頂ける。
歴代のどの王様よりも気高くお優しく、海よりも広い御心と山より高い御志をお持ちの、最も素晴らしい聖君として。
「王様・・・」

私の声に玉顔が上がり、双の御目が私を見つめて下さった。
今、この頬を滂沱と伝う涙に、一片の恥もない。
頬を拭う事も無く、私は万感の思いを込めもう一度お呼びする。
「王様」
「・・・戻るのだな、そなたがあの時言った通り」
「はい、王様」

それ以上の言葉はなく、私はそのまま床に膝をついた。
「約束を守ってくれたな、ドチ」

王様は静かにおっしゃった。
涙に暮れる私は、声も出せずにひたすら頷いた。

王様。あのお約束の言葉には続きがございます。
王様が聖君として故国に無事戻られた後も、この命が尽きるまで。私はずっとずっとお側に居ります。
それが父母との約束、そして王様への誓いです。
私が九つの時、この運命は定められているのです。

嗚咽を堪える事も出来ず泣き崩れる私に、王様は御口の端を歪め、お困りになったよう不器用に笑まれた。

その胸に染み入る笑顔は本当に久々に拝見する、この命よりもずっと大切な方の、懐かしい微笑みだった。

 

 

 

 

「ドチヤ」
康安殿の御部屋の中、王様がもう一度、怪訝な御声で私を呼ばれる。
階の下、合わせていた両の指先を見ていた視線をはっと上げ、
「申し訳ございません、王様」
深く頭を下げ直すと、王様が御口の端を上げられる。

「だから言おうと思っていたのだ。王妃も大層案じておる。少しばかり、遑を取ってはどうだ」
「え」
王様の御声に、心の臓が跳ねる。
まさかもう私は不要という事なのだろうか。
「ああ、そうではないぞ!」

誰よりも聡く明るくお優しい王様は私の変わった顔色に、御机の前からすぐに御言葉を下さった。
「そなたは働き過ぎだ。今のままでは細君と過ごす時間もそうたいして多くはなかろう。
夏も盛りだ。体を壊されては困るゆえ」

王様のおっしゃる事には何時もの通り、何一つの御間違いも無い。
正しくおっしゃる通りなのだ。今は蝉声の響く、夏の盛り。

それ故に、王様の玉体のご拝診について、典医寺との渡りを密に。
暑さで御体調を崩されては、私の居る意味などない。
肉より魚をお好みの王様に、滋養の良いものを出すよう水刺房に。
食の細くなりがちな、繊細な御方故に気を配らねば。
御体に熱が籠らぬ御衣装を手配するように、繍房に。
暑い、寒いと、不平不満を決して御口にはされぬ御方であられる。

今は王妃媽媽が、他のどなたよりも王様にご配慮されている。そしてチェ尚宮様もいらっしゃる。
分かっていてもやはり王様は私の命より大切な祺様。
そして長い時間を共に過ごさせて頂いた江陵大君媽媽。
私にしか分からぬ事があるかもしれない。だから休む暇など要らないのだ。王様のお側にいられさえすれば。

「なりませぬ、王様」
「ドチヤ」
「遑など、私には不要です」
「しかし」
王様は困ったように、少し眉をお寄せになった。ああ、私ごときの為にそんなお顔をさせるなど。
「細君はどうする」
「・・・妻は」

御心遣いへの申し訳なさと気恥ずかしさに、顔を伏せてお伝えする。
「・・・共に酒を飲めば、機嫌が直りますゆえ」
私の言葉に、王様は小さくお首を傾げられた。
「ならばそなたの宅に、寡人より酒を送っておこう」
「と、とんでもないことでございます王様!!」

私の大きな声に微かに驚かれたよう御目を瞠られる王様へ慌てて弁明するように、私は懸命に首を振る。
「本当に、その御心だけで、御言葉だけで、身に余る御聖恩です。ですからどうぞ、どうぞそれだけは!」
「そなた、変わらぬのう」

楽し気な王様の明るい御声が、蝉にも負けず、御部屋の中に響く。
その御声が聞けるだけで本望だ。これ以上に望む事など何もない。
妻には済まぬが、私にとっての運命はこの王様に定められている。

王様さえ王妃媽媽とお幸せで、お健やかであられれば。
御二人の睦まじさと、王様の聖君としての御代がこれより幾星霜続けば、他に欲しいものは何一つないのだ。
僭越ながら私はそれを、御守りしていきたいだけなのだ。この命の尽きる最後の日まで。

私のお小さかった祺様が、誰より大切な大君媽媽が、そして歴代のどなたより故国を愛し、民を案じる聖君であられる王様さえいらっしゃれば。

その翼で高麗の青い空を駆ける龍の御姿を、こうして畏れ多くもお側の地から拝見できれば、他には何も。

聞こえる明るい御声に安堵の息を吐き、私はひたすら頭を下げ続けた。

 

 

【 遑 | 2015 summer request・vacation 】

 

 

 

 

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