夏衣 | 2015 summer request・夏衣

 

 

【 夏衣 】

 

 

皇宮の東屋。夏の葉を伸ばす木々からの蝉声が暑さを更に引き立てる。
それでも周囲を池に囲まれ、水面を渡る風があるだけ凌ぎやすかろう。

チェ・ヨンは目の前のウンスを眺め、ようやく安堵の息を吐く。

先日チェ尚宮がウンスに渡した、軽く薄い夏衣。
ウンスが早速羽織るその夏衣の裾を、風が抜けていく。

軽く翻る衣を目で追って、ウンスは心地良さに笑う。
「ほんとに、すごく涼しいのね」
その嬉し気な声に頷くと、ヨンは己の咽喉元を見下ろした。
さすがの暑さに、己も紗の軽装になっている。

まあ、と肚裡で、ヨンは苦く笑む。
己は殆どの時間、その上に鎧を着込んで過ごすことになる。
着物が苧麻だろうが紗だろうが、大した違いはない。

ただし滅法暑さに弱そうなこの医仙は、そういうわけにもいかぬ。
「紗です。先の世界にはないですか」
「うーん、判んない。あるのかもしれないけど、韓服を着る機会が全然なかったもの。でもこうして着ると、気持ちいいわ」

その蜻蛉の羽根程に透ける、薄い夏衣の下。
襲ねた下の白い上衣も、勿論締めた帯もある。
それなのに羽織るものが夏衣に代わっただけで、衣の下の肌がまるで透けて見えそうで。
これではまたあいつらが騒がしくなるだろう。

ヨンはそう案じ、今度は戸惑いの息を吐く。
天界の衣を着て、人目につくのは仕方ない。
しかし高麗の衣を着ても人目を引くなら、一体何を着させれば良いのだ。

全く、面倒な方を背負ったものだ。

 

*****

 

診察室を吹き抜ける風が止まると、空気が揺らぐほどに暑い。
外出から戻ったウンスの姿を認め、チャン・ビンが声を掛ける。
「医仙」
「チャン先生、ずいぶん薄着ね。珍しい」
「さすがに盛夏ですから」

絽の上衣をさらりと羽織り、緩く帯を締めたチャン・ビンはウンスの装いを確かめて、懐手で笑んだ。
「医仙も涼し気ですね」
その声にウンスは嬉し気に微笑んだ。
「涼しいわ。こんないいものがあるなら、チェ・ヨンさんも早く教えてくれればいいのにね」

その声に僅かに目を瞠ると、チャン・ビンはウンスへ問い掛けた。
「そのお召し物は、では隊長が」
「ううん、チェ尚宮さんがくれたの。チェ・ヨンさんはチェ尚宮さんに聞いただけみたいよ。涼しい服はないのかって」

素直ではない。相変わらずだ。
あの隊長が他人の暑さ寒さを配慮されるなど。

この方だから、気になるのでしょう。
いつも見ていらっしゃるから、気付かれるのでしょう。
ご自分がチェ尚宮殿に頼んだと、正直におっしゃれば良いのに。

確かにこの盛夏、医仙はお辛そうにしていらっしゃった。
二言目にはえあこんが恋しいと、そうおっしゃっていた。
それでも首や足の大きな血脈を冷やして頂く以外、手立てを考えなかった私とは違う。

あなたが暑邪に中るのが心配だから薄着を。
そう言わぬのが隊長らしいと、チャン・ビンは密やかに笑う。
その笑みの意味も分からず、不思議そうに見つめるウンスと共に立つ診察室の中、ようやく一陣の風が抜けた。
その風はウンスの紗を、そしてチャン・ビンの絽を揺らして過ぎる。

 

*****

 

「ヨンア」
「・・・何だ」
「医仙に、お届けしたぞ」

迂達赤兵舎の二階の私室。
夏の陽が中天を過ぎ、ようやく弱い風が窓の外、鍛錬場の周囲を囲む木々の枝を小さく揺らし始める。

扉を開け入って来たチェ尚宮の言葉に、ヨンは顎で頷いた。
「ああ、見た」
「紗だから、少しは涼しくお過ごし頂けよう」
「ああ」
「お前からだと、伝えておいた」

その声にヨンは目を見開き、腰掛けていた上り框から立ち上がる。
「何だと」
チェ尚宮は涼しい顔で、慌てた様子のヨンを見返した。
「お前からだと、医仙にお伝えした」
「ふざけるな」
「ふざけてなどおらぬわ」

あの方は言っていなかった。
先刻の東屋での会話を、一言一句漏らさず思い出す。
それでも言っていなかった。

そんなつもりではない、別に、女人に絹を選ぶなど。
そんな深い意味はない、別に、暑くて辛そうなどと。
誤解されては困る。そんなつもりなど全くないのだ。
「余計な事を!」
叫んで紗の裾を翻し大股で部屋を駆け出て行くヨンの背に、チェ尚宮は首を傾げる。

普段医仙とほとんど接触のない己が急に衣を持参したのでは不自然だろうと、お前が衣を探していたとお伝えしただけの事。
何をそんなに憤る事がある。後暗いことがあると、自ら白状するようなものだ。

 

*****

 

「そんなつもりは、ありません」

突然典医寺の私室を訪ねて来て、戸口の下に立ったまま汗を流し、あらぬ方を見ながら。
低い声で弁解するように言うヨンを、ウンスは驚いたようにじっと見詰めた。
「チェ・ヨンさん?」
「深い意味は決して」
「チェ・ヨンさん、ちょっと」
「俺はただ」
「ちょっとちょっと、ストーップ!!」
「・・・は」

上がったウンスの声に、ヨンは唇を固く結ぶ。
結んだままでウンスを見ると、その両手を上げて手のひらをヨンへまっすぐ向けていたウンスは、ようやくにこりと笑った。
「ねえねえ、知ってた?」
「は」
「足湯っていうのがあるんだけど、逆に冷泉っていうのもあるのよ」
「冷泉」
「うん。冷やし過ぎは良くないけど、これだけ暑いし、今日は風も全然なかったから」

突然藪から棒に、何を言い出すのだ。
全く要領を得ないヨンに向かいウンスは上げていた手を下ろし、そのまま私室の窓の外を指さした。
「行かない?」

 

「これが」
目の前の大きな石桶を眺めつつ、ヨンは黙り込む。
「ずっと前は、この桶で水栽培とかの薬草を育ててたんだって。
今は薬草畑まで直接水を引けるようになったから、もうあんまり使ってないみたい」

ウンスはそう言いながら平然と履いていた沓を脱ぎ、ポソンを脱ぎ、ヨンの目前でパジを膝までくるくると捲り上げていく。
「医仙」
慌てたように声を上げるヨンに顔色を変える事もなく、ウンスは冷たい水を湛えた石桶の枠を跨ぎ、素足をその中へ入れた。
「さ、どうぞ?」
己の隣、石桶の枠をその手で叩くウンスに、声を失ったヨンは黙って首を振る。

並んで水遊びなどする気分ではない。
素足を剥き出しの、女人と並ぶなど。
見咎められればどうするつもりなのだ。
「誤解がなければ」
「はい?」
「もう結構です」
「え?」

踵を返し去ろうとするヨンに、背中から愉し気なウンスの大きな声が掛かる。
「ああ、深い意味が、あるのよね?」
「・・・」
「何だっけ、そんなつもりがあるのよね?」
「医仙」

声に怒りを滲ませ、振り返ったヨンは喉で唸る。
「あのね、あなた汗びっしょりよ。どこから走って来たの?」
「は」
「汗、びっしょり。だから少し涼もう、一緒に」

涼もう、一緒に。
そう言ったこの方が此方の顔を覗き込もうと細い躰を折った拍子に、長く赤い髪が石桶の水面を掠めるほどに垂れる。
いくら暑いとはいえ、髪まで濡らすな。
そう告げて垂れる髪を押さえたくなった己に、己自身が誰より驚く。

何なんだ。

「足を冷やすだけで、体にはいいのよ。ただ長い時間は駄目だけど。付き合ってくれないなら仕方ないわ。
キチョルのとこでも行こうかな。あそこなら誰かしら、水遊びに付き合ってくれそうだし」

何なんだ、その脅し文句は。そんなおつもりは端から無い癖に。

「ねえ、ちょっとだけ付き合ってよ。駄目?ん?」

何なんだ、その訊き方は。此方が断れぬと十分知っている癖に。

俺は黙ってこの方に倣い沓をポソンを脱ぎ捨てて、鬼剣を石桶の枠へと立て掛ける。
そしてそのままこの方から少し離れた石枠を跨ぎ、水の中へ勢いよくこの両脚を突込んだ。

ようやく熱くなった体が冷め、汗が引いていく。

何なんだ。迂達赤にどれ程鍛錬をつけても、噴き出す程の汗など滅多にかかぬ俺が。

「気持ちいいでしょ?」
「・・・医仙」
一歩半の距離、石枠に腰掛けるこの方に声を掛ける。
「ん?」
「簡単に素足になるのは、お控え頂きたい」
「なんで?」
「逃げ遅れます」
「ああ、そうか、そうよね」

この方の見るからに小さく白く、途の草ですら傷つき血を流しそうに柔らかそうな足では。
いざとなれば担ぐ。しかし担げば剣は振れぬ。剣を振れず一体この方をどう護れと言うのだ。
「素足を晒すのは・・・」

素足を人目に晒すなど、目の前で衣を全て剥ぎ取るのと大差ない。
薄い桜貝の爪先を晒すのは、その蜻蛉の衣の下の素肌を晒すのとそれ程に大差のない行いだ。

此処から一歩半の、碧く透明に透ける水の中。
この手を伸ばせば触れられる程、誤って足が伸びればぶつかる程の其処にある白い素足を、もしも己以外の誰かに見られれば。

何なんだ。そう考えるだけで、頭が煮え立つほどに熱いのは。

言い淀むヨンの周囲。
ようやく出て来た風が周囲の薬木の枝を、足を浸した水面を、そして羽織る紗の衣の袖を揺らして二人の間を吹き抜ける。
「ああ、気持ちいい」

目を閉じて嬉しそうに言ったウンスの閉じた睫毛も、長い髪も、風が揺らして過ぎていく。
どうやら足を引く気も、水から上がる気も、沓を履く気もないようだ。
つまり今もし敵に襲われれば、己はこの方を担いで剣を振るしかない。

そしてその素足を見咎められようと、こうして並ぶ姿を見られようと、全く意に介す事もないようだ。
己が選ぶしかない。人目に付くからと腰を上げ立ち去るか。
若しくは見咎められようと腰を据え、この方の横に残るか。

高麗武者の名に懸け誓ったのだ。
誓った以上、此処で護るしかないだろう。

諦めの息を吐くと、ヨンも己の髪を、そして額帯の尾を、ウンスと同じ夏の風が揺らすのに任せた。

 

 

【 夏衣 | 2015 summer request  ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

「夏衣(なつぎぬ・なつごろも)」
よろしくお願いします_(._.)_
(もなさま)

 

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