そうだ。私は怖いんだ。だから言えなくて、この人に聞けなくて。
結婚は何の約束にもならない。よく知ってる。ただの制度だって。
でも私は、この人とずっと一緒にいたい。ただ一緒にいたいだけ。
今もこの先も、これからずっと。
呼んだら答えてほしい。ここにいるって、大好きなその声で。
その声が聞こえなくなったら、どうすればいいか分からない。
指輪が欲しいわけじゃない。ただ約束が欲しいだけ。
決して途切れない輪の中で、いつでも逢える約束が。
この人が、呼んだら必ず答えてくれるって。
二度と離れて泣かせたりなんかしないって。
愛してるから、一緒にいるのに離れたらどうしようと思う。そんな事が起きてもいないのに怖い。
結婚式を豪華にしたいわけじゃない。知らない人が来ても仕方ない。
ただ、私は怖いんだ。怖いから、一人でも多くの人に知ってほしい。
自分がここにいる、この人の横にいるって。
この人を護る為に、ここにずっといるって。
死ぬまで二度と、ここを離れないって。
二度とこの人から離れたりしないって。
もし誰かがこの人を傷つけたら許さないって、そう知らせたい。
泣くよりやらなきゃいけない事がたくさんあるのに、それも怖い。
チャン先生の残した本を読んでも、劉先生の教えを思い出しても。
キム先生についても、脈診も鍼も、薬草も薬湯もどれほど勉強しても。
自分の力不足で、間違いで、一瞬の判断ミスで、もしも万一この人を失ってしまったらどうしようって、怖い。
どうやってこの人を護れるのか。それを考えるたびに怖い。
先を知っているのに、止める手立てすらまだ思いつかない。
その未来が、もしいずれやって来るかもと思うだけで怖い。
医者なのに、患者を救ったことを後悔してる自分が怖い。
どうしてあの時助けちゃったの。どうして、どうしてって。
イ・ソンゲを助けた事を後悔してる自分が、本当に怖い。
こんな女じゃなかったのに。ぶつかって、駄目なら次を考える。
そうやって進んできたはずなのに、今は全てが怖い。
何もかも不自由なくこなせた頃の自分が懐かしい。
何も考えずに、流れ作業で美容整形をこなしてた自分が。
勉強も、医者としての仕事も、日常生活も。
だからって帰りたいわけじゃない。
この人を置いて、どこにも行けない。行きたくなんてない。
離れるなんて考えられない。考えるだけで怖い。
強くなれると思ってた。逞しく生きていけると思ってた。適応能力は、人一倍高いと思ってた。
なのに護ろうって思うほど、愛されるほど、どんどん弱くなる。
こんなんじゃ駄目なのに。心配かけるだけなのに。
「世界は絶対だって思ってた。それなのにここに来るなんて。あの時だって、簡単に帰って来られると思って天門に行った。
それなのにあなたをあんな風に残した。離れ離れになった。だから怖い。
全部簡単に考え過ぎてた。だから今は起きるかもしれない、最悪の事を考えちゃうの」
愛しい方が泣いている。
俺の連理比翼が、震えながら泣いている。
その涙はこの胸を、錐で突くように痛ませる。
婚儀がこの方にとって泣く程怖いならば、挙げずとも構わない。
何も神仏の前でなくとも誓える事はある。
チェ・ヨンは黙って泣きじゃくるウンスの小さな手を握る。そして無理に笑みを浮かべて言ってみる。
「まるで兵法だ、最悪を予期して事に備えるなど。
最悪の犠牲、最悪の損失、最悪の窮地、最悪の反撃。
しかし御存知ですか」
ヨンの声に、ウンスが泣きながら問いかける。
「何を」
「俺が戦場に立つ限り、それは絶対に起こらぬ」
二度と離さぬ何処へもやらぬと、言葉を尽すより手を握る。
どれ程の誓いより、一つだけの笑みで伝えてやる。
愛しい女人が怖いと泣くなら、怖がるこの方に見せてやる。
信じて笑っていれば、大丈夫なのだと。
笑いながら共に朝を迎え、笑いながら共に夕を送り、共に笑い毎日を過ごしてさえいれば大丈夫なのだ。
あなた程には得意ではないが、俺も笑ってみせる。
そして必ずあなたを笑わせる。
たとえ涙を零すとしても、笑いながら零せるように。
あなたの笑う世を作るため幾度でも戦場に立つ。その途を塞ぐ者は幾人でも斬り捨てる。
あなたの笑う世が間違っているわけはないと信じる故に。
「婚儀に兵法を持ち込ませるなど」
ヨンはウンスの手を握る己の拳に、ほんの少しの力を込めた。
「さすがは高麗迂達赤大護軍の妻です」
ヨンの努力の末の軽口に安心したウンスが、ようやく目許を拭い次に膨れて見せる。
「私が持ち込んだんじゃないわよ」
「泣き始めたのは其方でしょう」
「もういい、忘れて!」
「そうしてすぐに投げ遣りになる」
「だいたいね、どうするの?結婚してもし相性が最悪だったら」
「そんな事、あるわけが」
「ほんとは隠してるイヤな癖とか、あるかもしれないじゃない」
「隠しなどしません。面倒な」
「分かんないわ、酒癖とか女癖とか」
その声にヨンは僅かに気色ばんだ。
「俺の事が信用なりませんか」
「そうじゃないわよ、信じてるわよ!」
「酒は飲むが、女癖など下らぬ事を」
「くだらなくなんかないわ、先の世界も離婚原因はたいがい酒か女か博奕か借金から始まる、家庭内暴力とか性格の不一致とかだもの」
「天界は争いもなく、静かではないのですか」
「そりゃ高麗みたいな戦はないけど、人は荒んでるわよ。キチョルにもそう言ったじゃない」
「そうですか、では酒癖でも女癖でも確かめて下さい。試しに一度共に潰れるまで酒を飲めば良い。見ればわかります」
「性的不一致だってある。セ・・・閨での相性は?それだって立派な問題よ。何よ、それも試す?」
「それは・・・」
「そうなのよ、私あなたについて、知らない事がまだまだあるの。だからそういうことが全部不安なんだわ、きっと」
ヨンは太く息を吐いた。
どういう事だ。今宵は良い報せが届けられると思っていた。
それでこの方が喜ぶと、少なくとも負担が減ると、それを楽しみに宅へと急ぎ戻って来たというのに。
怖いと泣くから、ただ笑ませたかっただけだ。
それが酒癖だ女癖だと難癖をつけられ、挙げ句の果てには閨の話にまで飛び火している。
どうしろというのだ。一体俺に、どうしろと。
「・・・よく、判りました」
「え?」
眸を閉じ重々しく頷いたヨンに、ウンスが小さく言った。
「暫しお待ちください」
そう言うとチェ・ヨンは、玄関先で入って来た背後の扉を開き
「テマナ」
そう大声でテマンを呼んだ。呼びながら懐へと、大きな手を差し入れる。
「はい大護軍!」
玄関先へ駆け寄るテマンに懐から抜いた銭を渡しながら
「これで買えるだけ、酒を買ってこい」
そう言って重い音を立て、その掌へと銭を落とす。
テマンが頷いて玄関先から走ると同時に、大きな音を立てながら宅の内へとチェ・ヨンは廊下を進む。
進みながら後ろを小走りに従うウンスへ肩越しに眸を流し
「すぐに戻ります」
短くそう告げ湯屋へと進むチェ・ヨンの背を、そこで足を止めたウンスは無言で見送った。

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