信義【三乃巻】~壱~ 迫られた選択・16

 

 

医仙が部屋を出て二人きりの部屋の中、俺は媽媽を抱え起こした。

「・・・ヨンア」
途切れ途切れ、苦しげに媽媽が呼ぶ。
「媽媽」
「・・・徳成府院君が、教えてくれたのだ、どうすれば、お前を助けられるのか」

媽媽の言葉に、息が止まる。
「奇轍が来ていたのですか。あの者のせいでこのような事になったのですか」

どういう事だ。 いや、どういうもこういうもない。
最初から謀られていた。あの奇轍の掌で踊らされていた。
今となれば全てが見える。

「あの者は、何も知らなかったのだ」
「あ奴が、媽媽に毒を渡したのですか」
「どうせ、長くは生きられぬ、あの者は それすら知らず、ヨンに飲ませよと、言った。
愚かだな、下らぬ、浅知恵だ」

あの時一歩の距離にいれば防げた。
それが出来なかった俺の命は、幼く、大きな志を持つ先王に救われたのだ。

「それで、慶昌君媽媽が、代わりに毒を」
媽媽の息が苦しげに浅くなる。
今この偉大な先王は、どれほどお苦しみなのか。

「私も、行ける、だろうか、 あの上、天界、に」
「・・・もちろんです」

媽媽の声を聞き洩らさぬように。
最期の全ての声を聞き逃さぬように。
そう言って、少し微笑んでみせる。

「聞かせ、てくれ、天界の、話を」

俺は慶昌君媽媽をこの腕に、ゆっくりと抱き締めた。

あの幼き頃暗い皇宮の裏庭で、揃わぬちぐはぐな沓を履き震えていた王様。
飼っていた犬に会いたいと泣くのを堪えて俺に言った、小さな優しい君主。

大きく、なられた。
御身を守ることすらできなかった元部下の、取るに足らぬ命を護る為に、そのご自身の命すら差し出すほどに。

「馬のない馬車が、すいすい走っておりました。
とても広い道に、馬車が溢れんばかり」

抱き締めた慶昌君媽媽の、苦しい息が耳に当たる。

「辺り一面光に満ちて、夜空は輝いておりました」

媽媽があの光の中に立つお姿が目に見えるようだ。
「・・・痛い」

その声を聞き、肚に力を込め、最後の覚悟を決める。

「苦しい・・・ヨンア・・・」
「ゆえに向こうでどれだけの闇夜でも、道には、迷いませぬ」
「とても・・・痛い」

抱き締めていた腕を解き、媽媽のお顔と真直ぐに対面する。

「もう楽にして差し上げます。
そうしても宜しいですか」
「頼む、そう、してくれ。もう・・・耐えられぬ」

俺の右腕は、腰の帯に差した短刀へと伸びた。
左手は、慶昌君媽媽の肩へと。

その幼い、しかし立派な体と志を抱き締める。
己の胸へと媽媽を引き寄せる瞬間に、右腕は短刀を引き抜き、媽媽を刺し貫いた。

そして腕の中で抱き締めた媽媽の体より最後の息が消え、その魂が抜けるまで。
俺はじっと、動かなかった。

全てが終わった瞬間、慶昌君媽媽のお体は、この腕の中から布団へと崩れ落ちた。

それと同じくして部屋の外で聞こえた音に、慌てて頬に流れるものを指で乱暴に拭う。

 

井戸で汲んだばかりの冷たい水を桶に入れ部屋に戻った瞬間。

布団の横に座る彼の手に握られたままの、血のついた剣が目に入った。
そしてその次に布団の上に横たわり、腹部を血で染めた慶昌君様の姿が。

力の抜けた私の手から派手な音を立てて水桶が床へと滑り落ち、中身がこぼれた。

「まさか」

彼は何も言わずに、剣を腰に戻した。
「あなたが、やったの?」

頭が回らない。
血の匂い、むせるような血の匂い、慶昌君様の赤い寝間着。
この人の、チェ・ヨンの、手に握られた、赤く汚れた剣。

「家の主人が裏切ったようです。 すぐに発ちます」
恐ろしいくらい冷静な、いつもと変わらない声。
「ここにいて下さい。様子を見てきます」

そう言って彼が枕元から立ち上がった。
こっちに歩いてくるその姿に私は思わず後ずさり、背を向け駆けだした。

 

媽媽の枕元を立ち部屋を出るため横を抜けようとすると、医仙はそのまま後退った。
怯え、それとも軽蔑か。しかしまだ約束は残っている。
ここを無事に抜け出し天門へ送る。

もう失うのはたくさんだ。一歩を踏み出せず喪うのはたくさんだ。
駆けだし部屋を出ようとする医仙の腕を捕まえ、この胸に抱き締める。

「従ってくれ、傍にいろ、離れては守れぬ。
そう言ったはずです」
その瞬間、俺の腕は力いっぱい振り払われた。
「触らないで!!」
俺から離れ、医仙は言った。
「その汚れた手をどけて」
そう言って、部屋を出ようとしたその姿に

「行くな!」

そう声を上げた。

立ち止った医仙に
「頼む」
それだけを、告げた。

もう二度と一歩が足りずに、悔いたくはない。
守るならば今、守ってくれないか。
そして、傍で守らせてくれないか。
今、その肩に凭れるのを、許してくれないか。

医仙は俺を一度も見ることなく、そこから走り去って行った。

建物の外回廊に出ると、少し前を行く医仙の後姿が目に入る。
天界の盾を構え、鬼剣を手にそれを追う。

狸が裏切った。毒蛇が邸内にいる。その二つが分かれば十分だ。

医仙の後を追う。医仙が足を早める。
後ろを俺を気にしながら歩く医仙が、回廊の階を踏み外した瞬間。

俺が駆けつける前に医仙の体は、その真下にいた男の腕に堕ちた。
あの男。徳成府院君奇轍の腕の中に。

次の瞬間俺は軽功を開く。
外回廊の欄干を一足飛びに奇轍の元へと飛び下り、腕に医仙を抱く奴の前に立ち塞がる。

「その方を下ろせ。お前に話がある」

その顔に浮かぶ余裕ある笑みを見ながら、鬼剣を鞘より音高く抜く。

奴に斬り掛かろうとした瞬間。
脇から飛び出した影に目の前が塞がれた。
あの笛遣いが、俺の道に立った。

無言の上段からの一撃目を盾で止め、迷わず斬り掛かる。
上段から振り下ろした鬼剣は仕込みの大笒で止められた。
しかし勢いでその体を弾き、奴はかなりの距離を後ずさる。

医仙に目をやると、奇轍の腕の中で暴れどうにか下に降りていた。
そのまま此方に寄ろうとするのを、しかし奇轍に腕で制されている。

その瞬間、笛遣いが仕込みの大笒に剣を戻す。
そのまま吹いて音功を使おうとするのに気付き、大笒を鬼剣で払い落とし、その体を盾で押す。
笛遣いの体が、回廊の階まで寄る。
一気呵成に攻め込もうとしたところで回廊の影より出てきた赤い衣に気付く。

火女。

回廊に並んだ奇轍と火女に挟まれた医仙を見つめ、次の瞬間丹田の気を、剣腕を通じ鬼剣へ流す。

鬼剣の柄から剣先へ、気の流れる蒼白い光が走る。

次の瞬間飛びかかる笛遣いの仕込み剣を、俺は鬼剣で払い退ける。

 

なんだ、こいつは。
舎兄の邸内で私兵と共に相対した時、その真気の弱さに毒気を抜かれた。
怪我を差し引いても大したことはない。
確かに優れた武功の使い手だが、内功の使い手としては並の技量かそれ以下だ。
そう思ったはずが。

今のこの、凄まじい気は何なんだ。
払われた大笒を握る手が震える。
払われた衝撃と言いたいところだが、そうではない事は俺が一番知っている。

この男が、恐ろしい。この気が、俺は恐ろしい。

 

奴が再度後退ったところで反動を付け、手にした天界の盾を奇轍に向けて飛ばす。
同時に奇轍の氷功が放たれ、向かって来た盾の動きを封じる。
俺が見ている前で奴は盾に氷功を流し、最後に盾を宙で粉々に吹き飛ばした。

「迂達赤隊長チェ・ヨン、 慶昌君媽媽はどこだ」
その声に腸が煮えくり返る。
「どこまで腐っている。ぬけぬけと。知らぬとは言わせぬ!!」

奴を睨んだまま叫ぼうと、奴はどこ吹く風とそれを受け流す。
毒を飲ませる罪悪感も、先王を殺めた恐怖も、微塵も見えない。

回廊に近づこうとした俺を、再度笛遣いが留め立てする。
それを鬼剣で振り払う。回廊まであと十歩。

しかしそこで、ばらばらと集まってきた兵に俺は周りを囲まれた。
奇轍しか見えていなかったのが仇となった。

一旦は大きく鬼剣を振って包囲網を広げたが、再びじわりと狭められ詰め寄られる。
その包囲の向こう、回廊の上に、奇轍と火女と共にいるあの方の姿。

奇轍が回廊の上で声を上げる。
「ここに廃位された慶昌君を逃がし、王に謀反を働いた罪人がおる。取り押さえよ!」
そして、包囲網の後ろから江華郡守の声。
「何をしておる、直ちにひっ捕らえよ」

回廊の上のあの方を見る。あの方は回廊の上から俺を見る。
二つの視線の交わりは火女が皮手袋を外し、俺が凭れたあの肩にその燃える手を載せた瞬間に断たれた。

俺は手から、鬼剣を石畳へと捨てた。丸腰になった俺に兵が駆け寄り、この膝を折らせる。
周囲の包囲網が一層狭まり、喉元へと数本の刃がつきつけられた。
あの方は目を逸らし、流れる涙を隠した。

 

どういうこと。

チェ・ヨンが、彼が、慶昌君様を殺したと思っていた。
だけど、そうじゃない。
彼はそれなら、キチョルにこんな風には言わない。
知らぬとは言わせぬ、それはつまりキチョルが慶昌君様の死を知っているという事。
絶対に助からないあの毒を、飲ませたという事。

なのに私は、あそこで行くなと言った彼を置いて部屋を出た。
汚れた手と、そう言って。何故汚れてたのかも、知らないで。
いつも守ってくれるあの彼を置いて。

初めて私に命令じゃなく、頼むと懇願したあの彼を、一人で残して。
今目の前で私を守るためにこれほど戦っている彼を、一人で残して。

あなたを傷つけた。あなたの、心を傷つけた。
どうしよう。ねえ、どうしたらいいの。
膝をついた彼の姿に、涙が止まらない。
見つかれば、絶対心配される。心配すれば、彼は無理をする。だから顔を背けるしかない。

 

やられた。
完敗だ。

慶昌君媽媽は毒に斃れ、あの方は奴の手に堕ち、退路も糞もあるものか。
俺は罪人として石畳に膝まづく。
目の前で怯え涙するあの方を助ける為に、立ち上がることすらできん。

頬に浮かぶ自嘲の笑みを、俺はもう隠すことすら出来なかった。

 

 

 

 

全話公開バージョン、終了です。

しかし弐の前に、久々の一服処、参ります。
此度は華やかに甘やかに、そして
何故かヨンは烈しく、ぶち切れたり致します。

まずはこの壱、お楽しみ頂けたとすれば
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