「イムジャ」
向かい合う、良く晴れた居間の朝餉の卓。
呼んだ声にあなたが視線を上げ
「ん?なあに?」
口に収めていた飯をゆっくり噛んで飲んでから、笑って返す。
「あの暦は」
この方の手製の暦。
一目で日付が判るようにと寝所の小卓の上に置かれた其れを、何の気なしに確かめたのは数日前の事。
その日以来、咽喉に刺さる小さな棘がある。
日付の上の丸。
他の日には何も書かれていないのに、暦の上の一日だけ囲まれたその丸がやけに気に掛かった。
「ああ、ベッドルームのね?上手に書けたでしょ」
上手下手は判らん。見分けのしようもない。
ただあの暦がどれ程に便利だろうが、俺は好まぬ事だけは判る。
思い出すのだ。この方を手放せと生まれて初めて怯えた日々を。
しかし嬉し気な笑顔を見れば、正直に好まぬとなど言えぬ。
「・・・はい」
「今年は時間があったから作ったの。ヨンアも大切な予定が出来たらどんどん言ってね。あそこに書き込むから」
「大切な」
では既に囲まれたあの印は不吉なものではなく、大切な日か。
「で?カレ・・・暦がなぁに?」
「印が」
「うん。あの日は私の誕生日だから」
その声に手にしていた箸を卓へと戻す。
あなたは卓向かいで飯を小さな口へ放りこみながら言った。
「毎日忙しいじゃない?忘れないように書いておいたの。当日のメニューはもう決まり。
ミヨクク。ヨンアはミヨクだいじょうぶよね?」
誕生日。王様と王妃媽媽以外にその日を知る者、まして祝う者は多くはない。
己が偶さかその日を知るのは、夏至の翌日と伺っていたからだ。
ヨン、お前は年で最も陽の長い日に生まれたのだ。
忘れるな。いつでもその陽のように明るくあれよ。
向き合って座し、あの頃父上はそう教えて下さった。
それを伺った時学んでいたのは、四書五経の何だったか。
明るく眩しい居間、窓から斜めに射し込む夕陽。
その中で姿勢を正し、耳を傾け書を目で追った。
その声にはいと返答すると、父上が笑って頷いた。
その父上と、そして既に亡き母上に心から感謝した。
こんなに暑い候に俺をこの世に生んで下さった事を。
誕生日とは祝うものでなく両親に感謝する日だった。
そして今はお会い出来ぬ、この方の天界の御両親に。
もしも生んで下さらねば出逢う事など叶わなかった。
「イムジャ」
「うん、なぁに?」
あなたが同じ気持ちなら、せめて俺だけは祝いたい。
あなたが生まれて下さった事。元気で此処に居て下さる事。
俺の前で旨そうに飯を喰い、呼べば笑って応えて下さる事。
「何故若芽湯なのですか」
「あのね、産んでくれたオンマに感謝するために。産んでくれた時は大変だったでしょって。
ミヨクは産後にも食べるから。天界では、誕生日にミヨククを食べるのが習慣なのよ。
おいしいとかよりも、作ってもらえる気持ちが嬉しいのよね」
「普段は喰わぬのですか」
「ううん、食べるわ。だけど普段は特別おいしいとは思わない」
誕生日の若芽湯。
若芽湯だけなら、具を手配すれば拵えられるだろう。
若芽湯の具。何が入っていたろう。若芽、葱、胡麻。
普段は飯など、口に入り腹を満たせれば味も中身も気にもならぬ。
それがこんな大切な、肝心の時に仇となる。
若芽湯。
南方で喰った時には雲丹が入っていた。あれは偶さか採れたのか、それともああいう作り方なのか。
いや、肉が入っていた時もあった。あれも偶さか手に入ったのか、それとも。
正しい作り方はどういうものだ。何が入れば正しいのか。
母上は俺を生んで下さった時、どんな若芽湯を召し上がったのか。
「・・・ヨンア?」
「はい」
「だいじょうぶ?すごく難しい顔してる。何か気になるの?」
「ええ」
気になるどころではない。今の俺には大問題だ。
どうすれば伝えられるのだろう、俺が今、どれ程倖せか。
生まれて来て下さった事、今此処に共に居て下さる事。
あの時沙鐘の砂のように掌から零れ落ちずに、留まって下さったあなたにどれ程感謝しているか。
全てが始まったのは、出逢った天界でのあの日だと思っていた。
そうではない。もしも俺達の全てが運命であれば、始まったのはあの印の日、そして年で一番昼の長い日。
俺達が互いの世に生を享けたその日。
既にその日に照準を定め、突然味を失って砂を噛むように感じる飯を掻き込む俺を、あなたは首を傾げて眺めた。
*****
「叔母上」
柱の影から、悠々と前の回廊を往く尚宮服に声を掛ける。
仰天したように振り返った叔母上が、寒い物影から解放され日向に出た俺に眉を顰めた。
「・・・何があった」
手も足もさすがに冷えた。寒さより寧ろ焦りの余り。
冬で何よりだ。
雪のない時節であれば鍛錬や役目に追われ、暢気に待ち伏せなど出来なかった。
「頼む。教えて欲しい事が、いや、助けが」
「王様か」
「・・・え」
「こんな処で待ち伏せなど、余程の火急の用向きではないのか」
頭を下げた俺に、叔母上は訊いた。
火急と言えばこれ程火急の用件もない。
しかし王様の御名を持ち出されるとは、全く考えもしなかった。
指摘され気恥ずかしさに襲われる。
全く俺は、一体何をしているのだ。
動揺する肚を見透かすように眼を細め、叔母上は
「違うのか。では医仙だな」
と呟いた。
「・・・ああ」
「どうした。敵か、病か、いつもの暴走か」
「どれでもない」
叔母上があの方をどう思っているかはよく判る。
当たらずも遠からず故、頭から打ち消す事は出来ん。
しかし此度はあの方ではない。問題があるのは此方だ。
「叔母上」
もう一度意を決し、その顔に視線を戻す。
それでも此処まで待った以上、もう恥も外聞も何もない。
秘密裏に、あの方に露見せぬように。当日を迎えるまで。
伝えるまで。どれ程に倖せで、どれ程に感謝しているか。
「若芽湯の作り方を教えてくれ」
「・・・何だと」
「女人の産後の肥立ちに良いのだろう。母上の召し上がった若芽湯の作り方を」
叔母上は何を誤解したのか、目を瞠ると顔を赤くした。
「まさか、ウンスが!」
糠喜びに叫び出しそうな叔母上に俺は急いで首を振る。
「違う。喜ばせて悪いが違うんだ」
刻がない。逐一説明する刻が勿体無い。
「チェ家の若芽湯と、そして女人を。あの方には、絶対に内密に運ばねばならん」
「今回という今回こそ、お主の事がさっぱり判らぬ」
叔母上は本気でこの肚裡を読み損ね、慶ぶべきか怒り出すべきか判らぬ顔で戸惑うように言った。

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なんと!
ヨンったら (゚ーÅ)
健気だわ…
家の旦那と代わって欲しい
昔の男なのに なんて
妻思いのいい男なんでしょう