独脚鬼【終章】 | 2015 summer request・お化け

 

 

 

 

「隊長」

最近ウンスからの呼び出しが来ないまま、静かな日が続いている。
トクマンの報告を受けても、特に変わった様子も見当たらない。
迂達赤の役目に忙殺されるチェ・ヨンは、ウンスの顔を見ない日が続いていた。
歩哨の後のトクマンの報せだけが、互いを繋ぐ便りになっている。

「奇轍と徳興君とが、かなり親密に接触しているようです」

兵舎の私室で受けたチュンソクの報告に、チェ・ヨンの眉が寄る。
「何を企んでいる」
「現在のところは確実な事は掴めませんが。この後、元の断事官が征東行省に入ると言う話も聞こえています。どうしますか」

チェ・ヨンは腹立たしさに、強くチュンソクを睨んだ。
徳興君。
紙に染み込ませた毒を盛り、ウンスを苦しめ、自分を絡め取ろうとした男。
汚い遣り口を思い出しただけでチェ・ヨンは腸が煮えくり返る思いのまま、唇を噛み締める。
同じ毒を飲ませ、蹴り飛ばした程度で帳消しになったと思ったら大間違いだ。

チェ・ヨンの怒りの形相を己のせいだと思ったか。
その視線の先でチュンソクは怯んだ様子で、チェ・ヨンを見つめ返した。
「隊長、自分が何か・・・」
「お前ではない」
「はあ・・・」

奇轍、徳興君、元の断事官。
役者が揃ったところで、恐らく王を陥れるための何かが始まる。
ウンスだけは盗られるわけにはいかないと、チェ・ヨンは思う。
今はウンスがいるからこそ、少なくとも奇轍も徳興君も、王に対し目立った動きは控えているはずだ。
ウンスの持つ天の知識、ウンスのみが読み解け、知るという天の啓示が、今はまだ王もウンスをも守っている。その身の安全を約束している。

しかし綱渡りだ。
言いなりにならぬと分かれば直にでも手を伸ばし、捉えて喰い殺しそうな奴らばかりなのだ。
それも虎のように、一撃では仕留めない。
蛇のようにじわじわと締め付け、恐怖を味わわせてからだろう。
だからこそ尚の事、絶対に獲られるわけにはいかない。

「医仙は、どうしている」
「トクマンが康安殿ですから、チャン侍医が守っているはずです」
「迂達赤はついていないのか」
「今日は、特に」
「変わらんか」
「典医寺からは、特に何も」

恐る恐るそういうチュンソクに、チェ・ヨンは頷いた。
「何かあれば、必ずすぐに報せろ」
「は」
チュンソクが短く言って頭を下げる。

その声を聞きながらチェ・ヨンは私室を大股で抜け、そのまま階を下り、吹抜を足早に抜け、兵舎表へと駆け出た。
「隊長」
駆けるチェ・ヨンの横、ぴたりと付いたテマンが呼び掛ける。
「お前は此処にいろ」
横のテマンに向けチェ・ヨンは声を飛ばした。
「何かあれば、すぐに典医寺へ報せに来い」
「わ、わかりました」

テマンの足が兵舎へと駆け戻る気配を背後に感じたまま、チェ・ヨンは真直ぐに典医寺へ駆けた。

 

*****

 

「隊長」
駆けこんだ典医寺の庭、静かな呼び声にチェ・ヨンの足が止まる。
「侍医」
「どうされました」
「何故一人でいる!」

チェ・ヨンの大きくなった声に、普段はほとんど感情を表さない穏やかなチャン侍医の目が、驚いたように瞠られる。
「医仙は何処だ」
「・・・王妃媽媽のところへ、往診に」

その声を聞くと同時に、チェ・ヨンは踵を返し典医寺を走り出る。
大きなチェ・ヨンの鎧の背を、チャン侍医の視線が追う。
振り返りもせず走り去るチェ・ヨンを見詰め、チャン侍医は懐手で呆れたような息を深く吐いた。

 

「ヨンア」
回廊を走り抜けた先、飛び込んだ坤成殿の中庭。
チェ尚宮が突然の闖入者に、呆れ声で呼び掛ける。
「叔母上」
声の先を見つめ、チェ・ヨンが声を返す。
「何をしに来た、坤成殿まで。王様なら此処には」
「いや、王様ではない」

そう首を振るチェ・ヨンに向け、チェ尚宮が眉を顰める。
「では」
「医仙は、いるか」
「・・・すれ違いだな」
呆れ顔のチェ尚宮の声に、チェ・ヨンが大きく一歩詰め寄った。
「典医寺へ戻ったのか」
「そんな事は知らぬ」
「誰か供をつけたか」
「皇宮の中の移動に、何故そんなものをつける」
「徳興君も奇轍も居るだろう!」

顰め損ねたチェ・ヨンの声に、チェ尚宮が咎めるような目を送る。
「声が大きい!」
その諌め声に、チェ・ヨンがようやく息を吐く。
チェ尚宮が足を進め、坤成殿の入口から離れる。
チェ・ヨンはその後に従き回廊の物陰、人目の少ない角へと入る。

「奇轍も徳興君も、今日皇宮内には来ておらん」
ようやくチェ尚宮がチェ・ヨンへ振り向き、低い声でそう告げる。
振り向いたチェ尚宮の目に、硬い表情でチェ・ヨンは返した。
「奇轍と奴が手を組んで、裏で動いているらしいと報告があった。
この後元の断事官も来れば、どうなるか判らん」
「だから何だと言うのだ」
「あの方を一人にするな!」
「武閣氏は医仙の守役ではない。あくまで媽媽をお守りする役だ」
「叔母上!」
「医仙が外へ出ると言うなら武閣氏もつけよう。徳興君なり奇轍が乗り込んできたなら、媽媽と共に居られれば良い。
しかし平時の皇宮内で、医仙に何の衛が要る。襲われたわけでもあるまいに」

焦りの余りチェ・ヨンの額に汗が浮かぶ。
チェ尚宮の言い分は尤もだ。間違ったことを言っている訳ではない。
それでも、とチェ・ヨンは首を振る。

分かっていても、どうにかなってしまいそうだ。
今にも悪意の手が再びウンスへ伸びていたらと思うと。
せり上がるような心臓をで無理矢理に宥め、チェ・ヨンは走り出す。

無事に典医寺へ戻っているはずだ。
徳興君と奇轍の事にしても確たる証拠は何もない。
揣摩憶測の域を出ない。全て単なる取り越し苦労かも知れない。

チェ・ヨンはたった今走って来た典医寺への道を駆け戻る。

徳興君と奇轍が手を組んだ証拠も、何か企んでいる証拠もない。
鬼胎を抱けば、揺れる薄の影すら幽鬼に見える。

時折ウンスと過ごす東屋の横を駆け抜けながら、横目で確かめる。
あの小さな影も形もないのを認め、そのままに通り過ぎる。
きっと戻っているに違いない。
そして走って来た自分を見つけ、驚いて目を丸くすることだろう。
そうでなければ困る。そうでなければ、困るのだ。

再び飛び込んだ典医寺の庭を抜け、薬園を抜け、ウンスの部屋の扉の前、チェ・ヨンは板戸を思いきり拳で殴りつける。
開けてくれるはずだ。そうでなければ、困るのだ。
果たして扉は中から開き、今の今まで皇宮中を探し回ったその顔が、暢気な様子で扉の隙間から覗く。
「驚いた!来ると思わなかった」
「いつになれば」
「え?」
言い掛かりだ。これでは八つ当たりだ。

一瞬たりとも目を離さずになど居られるわけがない。判っている。厭という程。それなのに。

「一体、いつになれば分かるんだ!!」

チェ・ヨンは干上がった咽喉から、割れるような声を絞り出す。
その声にウンスが驚いて目を丸くする。
「何よ、急に!」
「俺に黙って出歩くなと言っているでしょう!」
「どこにも行ってないじゃない、ただ媽媽の往診に行っただけよ?」
「毒を盛られたのを忘れたか!」
「だから徳興君には近づかないじゃないの!」

ウンスは間違ったことは言っていないと、チェ・ヨンも理性では分かる。
それでも徳興君の、奇轍の名が出るだけで、腹が凍りそうになる。
三歩離れては守れないから離れるな。目の届くところにいろ。
俺に守らせてくれ。もう命を無駄にしたりしないと誓うから。
心の中の声の欠片は、伝えるすべさえ持たぬまま、チェ・ヨンの胸にまた降り積もる。

「ちょっと、どうしたの。そんな顔して。気分が悪いの?」
ウンスが当惑したように、チェ・ヨンへ問いかける。
本当だ、どうしたというのだ。そして、どうするというのだ。
ほんの数刻離れただけでこれ程に探し回ると言うのに。
あの天門を隔てこれからどうやって過ごして行けると言うのだ。

行けないに決まっている。そんな事は無理に決まっている。
決まっているのに、どうやって生きて行くと言うのだ。
これからの先を、目を離せないこの方無しで。

こうして走って探せれば良い。見つかるならいくらでも走ろう。
この後二度と会えぬ扉に挟まれて、その向うへ行けなくなったら、どうやって声を聞いたら良いのだ。どうやって安心すれば良いのだ。

「何かあったの?変よ」

そうだ。
怖いのは独脚鬼でも、暗闇でいきなり脅かされる事でも、目の前に棒が突き出される事でもない。
ウンスを喪う、その事だけが恐ろしい。
この先どうやって一人きり、息をしていくべきかすら分からない。

それなのに、本当に帰さねばならないのだろうか。
自分たちに赦されるのはその途だけなのだろうか。

幼子のように惑うウンスの目を見つめ、チェ・ヨンは幾度も一人きり、胸の中で問い直す。

今は胸にだけ積もる言葉を口に出して問うのは、いつになるのだろう。
あなたと共に居たい。あなたを守りたい。三歩の距離で。
一日でも、一年でもなく、これからこの命が尽きるまで。
だから俺と共に居てくれないか。離れては生きて行けないから。

そう問うたなら、ウンスは何と答えるのだろうか。
その答だけが分からないまま、チェ・ヨンは黙って首を振った。

 

 

【 独脚鬼 | 2015 summer request・お化け ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ

5 件のコメント

  • SECRET: 0
    PASS:
    作り物のお化けでヨンが怖がるはずもなく、本当に恐いのはウンスを失うことだったのですね。
    それを素直に口に出せればどんなに楽になれるか、でも、今のヨンには、簡単に口にできる言葉ではないだけに辛いですね。
    このへんの葛藤、読んでる方も辛いです。

  • SECRET: 0
    PASS:
    一言でいいのに・・
    「残ってくれ」
    「失いたくない」
    「愛している」これは難しいか・・・・
    ヨンアを思えばせつないお話なんだけれど
    空回りしているのはヨンアだけのような?
    高麗の武士ってほんと厄介なんだわ。
    トッケビは結構可愛い?お化けだよね?
    やつれてもいいから福もらいたい気も(笑)
    それにしてもこの画像はどこから?
    アハハハそこかい!って突っ込まないで^^

  • SECRET: 0
    PASS:
    やはり
    ヨンが一番怖いのは…
    いろんな意味でウンスですね(^^;
    夏リクエストも前半終了(^^)
    さらんさんの素晴らしいお話に
    惚れ惚れしてます。
    さらんさんの『シンイ』に出会えて
    本当に良かった―(*^^*)
    後半も楽しみです♪

  • SECRET: 0
    PASS:
    さらんさん❤︎、今回の夏リク話も、切なくて、もどかしくて素敵でした。
    夏のスペシャル企画ということを忘れてしまうくらい、本編に繋がる内容で、まだまだ続きを書いてくださ~い!と叫びそうになりましたよσ(^_^;)。
    たしかに、作り物のオバケや、驚かそうという画策よりも、運命や感情という、どうにもし難いもののほうが怖いですよね。
    ああ、ヨンが望むことはとても単純なのに、その単純なものほど、伝えるのが難しいのかもしれません。
    さらんさん、いつも楽しませて頂いて、本当にありがとうございます。

  • SECRET: 0
    PASS:
    ヨンが切なくて、切なくて、切ない。
    私は、
    さらんさんのお話が読めなくなる日が来たら…
    と思ったら、怖くなりました。゚(T^T)゚。
    胸が苦しくて泣きそうになったけど、
    素敵なお話をありがとうございました❤

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です