2016 再開祭 | 鍾愛・結篇(終)

 

 

「・・・何か、ありましたか」

厭な音で打つ胸の早鐘は、落ち着くどころか大きくなる一方。
目下の敵。思い当たるとすれば汚い鼠。
腕を失くしたあの男に、何が出来る訳でも無かろうが。

「・・・徳興君に、何かされたか」
俺の低い声に却って驚いたように、亜麻色の髪が大きく揺れる。
「まさか。第一会ってないもの、あれからずっと」
「では」

では何だ。
投げた好物に跳び付き、咽喉を鳴らした朝とは違う。
腰を跨ぎ、耳まで真赤に染めて俯いた困り顔とも違う。

早く此処から出たい。並んで雪の中を歩きたい。
悴む風から庇う振りで手套の手を繋いでも、雪の中なら咎められない。
凍った雪を払う振りで立ち止まり髪を撫でても、周囲に名目は立つ。
それを密かな愉しみに此処まで走れば、肝心のこの方がこの態度だ。

ようやく物陰から出て来て指先を舐めたと思ったら、再び物陰に走り込んで怯えた大きな目で此方を覗く仔猫。
「何があった」
「何にもないわよ?言ったでしょ、過保護なんだから」

何も無いなら何故避ける。この腕もこの眸も。
読めない。本当に肚裡が全く読めない。鈍い己への苛立ちに唇を噛む。
それでもこの方に当たる訳にはいかん。
地団太を踏みたい気持ちを堪え、出来る限り穏やかに問い返す。

「何があったのです」
「何もないの。疲れたから、家に帰りたいだけ」
「買い物は」
「私に気を使わなくて良いんだってば!」

小さな叫びのように上がる声。
一日陽の入らなかった典医寺の部屋は深くなった雪に閉ざされ、静かに暗く沈んでいる。
変わらずに其処に射す陽の光の筈のこの方の顔が、表の銀鼠の空よりも曇っている。

叫ばれる理由すら判らず、ただその声に胸が痛い。
倖せの余り痛いなら我慢する。ただこんな痛みは我慢できん。
そしてどれ程可愛い仔猫でも、時には物陰に手を突込み引き摺り出す必要はある。
例えその爪で搔かれようと、小さな牙で噛まれようと。

此方に向けようとする細い背、それが返る前に腕を伸ばしその両肘を掴まえる。
搔こうが咬もうが好き勝手にばかりさせる訳にはいかん。
掴まえた勢いで振り向けた顔、その瞳を覗き込み短く問う。

「理由を言え」
「何を?」
「おかしな態度の理由を」
「おかしいのは!」

苛立っているのはこの方も同じだったようだ。
肘を掴む両掌を細い腕を振り上げて払い除け、尖った声が再びこの耳に刺さる。
「おかしいのはそっちじゃないの!急に抱き寄せたり、こ、腰に」

成程、朝の俺の図に乗った行いで気分を害したか。
「厭でしたか」
「イヤだったんじゃなくて、おかしいじゃない。いつもはそんな事絶対しないのに。ただ抱き締めるだけなのに」
「もうしません」
「されたのがイヤだったわけじゃないんだってば!ただ」

紅い唇を噛むと、大きな瞳に見る見るうちに涙が盛り上がる。
「優しくされたり、態度が変わると不安なんだってば!急に態度が変わるのは嫌なの。
何かあるんじゃないか、隠し事されてるんじゃないかって、どんどん悪い方にばかり考えちゃうんだってば!」

そんな方では無い筈だ。こんな風に怖がる方ではない。
此方の肝が冷える程に無茶で、いつでも何か楽しみを見つける方だ。
これしきの事でこんなに怯える肝心の理由が見えない。

「何を怖がっている」
優しいのが厭か。抱き締めるのが厭か。触れられるのが厭か。
そう聞けば違うと首を振る。不安だと言う。
その理由が判らん限り、甘やかしたくなるたび悩む事になる。
また背を向けられるのか、泣かせるのかと。

おかしいだろう。愛おし過ぎて膝に乗せ、撫でて抱いて眠りたいだけなのに。
心から欲しい唯一人の女人に、手を伸ばす前に考えねばならんなど。

「言わねば判らない」
「言いたくない。思い出したくない」
「それでは変わらん」
「誰にでも言いたくないイヤな記憶の一つくらいあるでしょ!」
「俺にも言えんか」
「それは」
「知らぬ振りで放って置けと言う事か」
「誰もそんな事言ってないじゃない!」
「優しくするな、触れるなと言う事か」
「・・・本当に嫌な思い出よ」

そう言って力なく椅子を引き、この方は其処に腰を落とした。
そのまま体を丸めて両膝を抱え込み、呟く声に耳を澄ます。
逃してはならん。これから先、思うままにあなたを抱き締める為には。
その傷ごと抱き締めて、恐れること無く泣き顔にも口づけて癒すには。

「言いたくないのは、聞けばあなたも嫌な気分になるだろうから。
私だってあなたの過去を聞けば、複雑な気持ちになるのと同じ」
「それで」

膝を抱えて丸まったこの方の座る椅子の足許へ腰を落とし、その瞳と同じ高さで目を合わせる。
「あなたとは関係ないの。私の、前の世界での話」
「はい」
「長いこと付き合ってた男がいたわ。学生時代からね。私、頭だけは良かったから、その男のレポー・・・勉強まで手伝った。
外食が続けばお弁当も作ったし、飲み会だって言われれば笑って送り出した。
本当は自分の勉強も忙しかったし、自分も友達と遊びたかった、でもそう言って、嫌われる方がイヤだった」
「・・・はい」
「最後にね、その男が言ったの。お前の方が美人だし、性格もいい。だけど俺の夢を叶えてくれるのは別の女だ。
金の力には勝てない。だから金持ちの娘と結婚するって。私の手作りのお弁当を前にね」

物凄い音が部屋に響く。
丸まっていたこの方が驚いたよう顔を上げ、仁王立ちになった俺を見る。
この方が体を丸めていてくれて良かった。
勢いで立ち上がった拍子に肩で突いた卓が大きく揺れ、その上に置かれた飲みかけの茶碗や急須が床の上で割れて砕けた。

一歩この方に寄る足の下、残っていた破片を鈍い音で踏み潰す。
「だからイヤだったの。急に態度が変わると怖いの。思い出すの。手の平を返すみたいに、コロッと変わったその時の男の態度をね。
あなたを疑ってるわけじゃない。だけど何を信じていいかも」
「変わらなければ、良いんだな」

嫌な思い出などこうして粉々にすれば良い。
砕いて掃き清めて全て忘れてしまえば良い。
変わるから怖いというなら、いつでも膝に乗せている。
最初から素直にそうしておけば良かった。妙な体裁など繕わず。
心のまま腕を伸ばしておけば良かった。あれこれ悩んだりせず。

「最後まで、変わらなければ良いんだな」
己が飽いた時、相手も飽いている。
己の気持ちが変われば、相手も変わっている。
それでは俺は変わらずにいる。変わらずにいる自信がある。
そして俺が変わらずにいる事で、あなたが安堵するのなら。

「怖がらないで下さい」
「・・・うん」
「逃げないで欲しい」
「うん・・・」
「厭がるのも無しです」

逃げられるのは耐えられない。厭がられれば我慢出来ない。
ましてやそんな屑の、顔すら知らぬ男の下らぬ裏切りの所為でなど。
変わらない気持ちもある。変えられない想いもある。
いっそ変えられればあなたも己もどれ程楽か知っていても、絶対に揺れぬ、譲れぬ心がある。

「覚悟して下さい」
俺の呟きに、あなたは怖々頷いた。

 

*****

 

「ヨンア?」
「はい」

卓の縁側で雪見酒。今年、塩温石の出番はない。
あなたを膝に乗せ、この背からぐるりと包んだ掛布の中で振り向く瞳に頷き返す。

こうしてこの世に一つきり、俺の欲しい温もりを膝に呑む酒は殊の外旨い。

「寒くない?」
「いえ」
「雪見るならせめて、居間からでも良くない?」
「・・・いえ」

居間には座椅子がある。あなたを膝に乗せ、共に座るには狭い。
まずはあの肘掛を切落とす事から始めねばならん。そうでなければこの方と別々に坐すことになる。
変わらぬと誓った声に嘘はない。宅の中では好き勝手にさせてもらう。

「でも」
「はい」
「ずーっと膝に乗せるのも、どうかなあと思うんだけど・・・」
「厭がらぬと」
「イヤなんて言ってないじゃない」

何が嬉しいのか、余程可笑しいのか、あなたは白い息と一緒に忍び笑いを漏らす。
「そんなに私の事が好き?」
「・・・・・・」

最初から素直に、心のままに。妙な体裁など繕わず。
俺が変わらぬ限り、あなたも変わらぬと誓ってくれるなら。

「ねえ、好き?」
「・・・・・・はい」
「あ、返事が遅れたー!好き?」
「・・・はい」
「私は違う」

返答に仰天し思わず膝の中の肩を掴んで振り向かせれば、その瞳が俺を見つめ、冷たい指が頬に当たる。

「私はあなたを愛してる」

慣れた仔猫はそう言って、もう怖がらずに懐へと顔を埋める。
そして柔らかな頭をこの胸に擦り寄せ、満足げに喉を鳴らす。

体も心も温かいのは、気分良く重ねる杯の所為ではない。
甘く高い鳴き声を聞きながら、握った杯を一息に空ける。

縁側の先の寒椿。白い庭に咲く赤い花。
腕の中の仔猫は杯を重ねれば虎になる。

程々にさせねばならんとその口許を見詰める何処かで思う。
いっそ酔い潰れて眠ってしまえば良い。そうすれば遠慮なく攫う。

寝台の上、この腕の中、その寝顔を思う存分眺められる。
翌朝この美しい花が、腕の中でもう一度咲き開いて笑うまで。

俺も男だ。下心はないなどと綺麗事は言わん。
小さな手に握る杯を無言でなみなみと満たすこの手許を眺めると、この方は首を傾げてそれを一口含んだ。

 

 

【 2016 再開祭 | 鍾愛 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

1 個のコメント

  • 素敵すぎて倒れそうになりました~。
    ウンス一筋のヨン、素敵です。
    世の中にこんな男性が、たった一人でいいので居てほしいなあ~って思わせてくれちゃう。だからヨンて、素敵なのかな~。

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