2016 再開祭 | 彷徨・中篇

 

 

夢さえも忘れた泥濘の眠りは絹より柔らかく体を包む。
どうして毎日陽は昇る。あの日全ての朝は消えたのに。

闇夜の中の己の足音。このまま何処に向かうのだろう。
どうして夜毎に目が醒める。月は二度と昇らないのに。

見たくないから眸を閉じる。その狸寝入りが癖になる。
気付けばただ温かい闇の中、次に起きれば四日が経つ。

最高だ。

こうして眠り眸を開けた時、何もかも消えた久遠の闇の真中に立っていられるならもっと良い。

手招く闇に両眸を閉じる。そのまま攫え。連れて行け。

 

暗がりの便利な処は、己の面が割れぬ事。
女は墨夜でも器用に男の貌を拝めるらしいが、同じ男同士でその恐ろしい勘働きは無い。
それはそうだろう。見目良い男を欲しがる男が居るなら驚きだ。

闇夜が良い。月が昇れば出歩く気など浮かぶ雲間に失せるから。
何処行く当ても無い闇行脚。ただ脚が運ぶまま従って夜を往く。

「ヨンの旦那」
ふらりと進んだ酒楼の庭で、柱の影からの小声に足を止める。
振り返らない。確かめもしない。誰から掛かった声かは判る。

「また出掛けんのか」
出仕もせぬ無官の若造に向けて旦那か。
こいつらの方が若いから、そう呼ばれるのも仕方はないが。

「なあ旦那。たまには」
何かを言いかけた相棒の構える槍の隙間をくぐり、先に呼び掛けた弓を担いだ男の肘が鈍い音でその脇腹に入る。

「い・・・ってえだろう!何すんだ糞餓鬼!」
「お前だって餓鬼だろ!」
「俺は槍では一丁前なんだよ、てめぇは弓も半人前だろうが!」
「あ、だ旦那!待てよ」
「見ろ、てめぇが下らねえ事抜かしてっから先に行かれんだ」

犬ころのように吠えたてながら小煩い奴らが二匹、この脚に続いて手裏房の酒楼の門を駆けて来る。

振り払いはしない。眸を向ける事もない。
風と同じ、波と同じ、踏みしめれば足許で鳴る河原の石と同じ。

木で鼻を括るようなあしらいの此方に腹を立てるでもない様子で、二つの煩い気配が絡みつくよう横に添う。

差し向けたのはどいつだ。
酒楼の酒母の顔をしておいて手裏房を一手に仕切る遣り手婆か。
それとも廣大のタルより余程乏しい表情で尚宮服を纏い、皇宮を裏から仕切る地獄耳婆か。

何方でも良い。変わりも無い。
しかし犬ころに追われていては酒を呑む気にもなれない。

「・・・あっ、旦那!!」
「逃げんのか、待てよ!!」

墨夜の中、前触れも足音もなく駆け出したこの気配に取り残されて、鼻だけは利く二匹の犬がきゃんきゃん吠える。

吠え声から逃れる為に曲がった裏道、感じた気配に足を止める。
真後ろから追って来た犬が二匹、闇の中で止まった背にぶつかって無様に其処へ尻餅をつく。
「何できゅ」

煩い口を閉じさせようと転がる体を爪先で蹴り、星闇に慣れた眸で裏道の先を見る。
先に立つのは三人の男。
そして真中に立ち尽くす、裾も髪も乱れた夜目にも蒼い顔の女が一人。

「なあ、姉さん」
下卑た口調で男の一人が蒼い顔の女の顔を覗き込む。
「こんな時刻に供も連れずに出歩く遊び女だろう。買ってやるよ」

他の二人もその声に応じ、慾で汚れた笑い声を立てる。
「代金は三人でたっぷり体で払ってやるからな」
「さあ行こうか」

甚振るような声にうんざりし踵を返せば、真後ろに立った二匹の犬と真正面からぶつかった。

「どこ行くんだよ、旦那」
血気盛んな若犬が吠えて、背に負う弓を抜いて構える。
もう一匹は手にした長槍を構えこの脚の行く手を塞ぐ。
「どんだけ寝てても、間違った事だけは許さないと思ったよ」
「射ろ」

弓を構えた犬の目を睨み、道を塞ぐ長槍を片手で跳ね上げ、開いた道を往来へ戻る。
その背後、放った矢羽が闇を裂く風。
矢は鋭い音を立て、三人の男の足許へ寸分違わず突き刺さる。
「おいおい、シウルぅ」
「だって旦那が射ろって言ったんだ!」
「おめぇ、ほんとに面倒臭ぇな!」

二匹の犬は吠え合いながらその先の男達へ突込んでいく。
あいつらは何処まで馬鹿だ。射ろと言ったのは俺の事だ。

しかし薄暗がりで女に絡むだけはある。
それなりに喧嘩慣れした三人は闇雲に突込んだ弓遣いの顎を殴りつけ、振り回した雑な槍先を躱すとその腹へ蹴りを見舞う。

きゃんと鳴かなかったのは褒めてやろう。
どちらもまだ若犬だ。老獪な狗には手も足も出ないと見える。
肝心の弓も槍も手を離れ地に転がれば唯の邪魔な長物になる。

成程、今宵の愉しみは酒でなく喧嘩か。
そのままもう一度脚を戻すと組んず解れず団子になった塊の中へ、腰を落として肩から割り込む。

闇からの急な加勢に気勢を削がれた一匹目の雑魚の顎、腰を上げた勢いで頭突きをかます。
舌でも噛んだか。鈍い音と共に、昏い夜に黒い小さな飛沫が飛ぶ。

唖然した表情の二匹目の雑魚の腹、思い切り引いた拳を捩じ込む。
雑魚はごぼりと音を立て、口から厭な水を吐いて地へ転がる。

ああ、如何にも汚泥の中をのたうつ雑魚らしい。
「旦那」
「俺達は殴んなよ!」

この闇夜で区別などつくか。火の粉を被りたくなきゃ離れてろ。
三匹目の襟首を掴んで思い切り地面へ倒し、馬乗りになり両膝で腰を挟み、殴りつけようと振り上げた腕が突然重くなる。

急に掴まれた腕の勢いは止まらず、その腕にしがみ付いた躰ごと振り下ろされた拳。
それは三匹目の頬を掠り、しがみ付いた女は暗い地に倒れ込んだ。

三匹目は転がった地面から跳ね起き、そのままこの頬を固めた拳で殴り飛ばす。

ふざけるなよ。

殴られた勢いで噛んだ唇の血を唾と一緒に吐き出し、遠慮会釈なくその腰を蹴り飛ばす。
相手が体を折った処で下がった顎を拳で突き上げ、その顔を右からそして左から殴りつける。
男の口許から地面に飛んだ白い歯が、小石とは違う色に光る。
再び転がった雑魚の腹を踏もうとした処で、若犬二匹が必死にこの体を後ろから抱き締める。

「もう駄目だ、旦那」
「死んじまうだろ!」

その二匹を片腕で振り払い、切れた唇を親指で拭う。
指先を濡らす血を振って飛ばしそのままもう一度、今度こそ往来へ戻ろうと踵を返す。
「旦那」
「ヨンの旦那、待てよ!」

地面に転がる長物をそれぞれ拾い上げ、二匹が慌ててついて来る。

 

 

 

 

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