2016 再開祭 | 貴音 ~序・典医寺 参~

 

 

「でもあんまり急に体重が増えたり、お腹が大きくなるのもね。
後々体重管理が大変だし、妊娠中には飲めない薬湯もあるから。
理想はだいたいプラス8から10キロってとこかな。1週間に500グラム・・・4週で2キロ・・・8か月以降は増えないように。
太り過ぎは妊娠中毒症や糖尿病や関節炎が怖いから、気付いたらちゃんと言ってね、ヨンア。絶対甘やかさないで」

意味の判らぬ天界の言葉を交えつつ、この方が俺に笑いかける。
つまりは太れば教えろ、そうおっしゃっている事だけは判る。

女人はこうして、何も変わらずとも母になる。身籠った瞬間に。
細い腰も平らな腹も変わらぬまま、そこに新たな命を宿して。
男は駄目だ。少なくとも俺は駄目だ。
天界で初めて逢った姿のままこの方が母になった、その覚悟や速さに右往左往するばかりで。

困り果てた顔の俺に、瞳を上げたこの方が此方に向けて伸ばすその細い腕の先、小さな手を握る。
この方は嬉し気に武骨な掌を握り返すとそのまま重ねた双の手を、当然の如く平らな腹へ導こうとした。

父上は、少なくとも俺の知るあの父上は、常に目指す山だった。
常にそこに泰然と在り、どれ程の風雨にも揺らがずに。
常に道を示し、そこを目指せば間違いはないと思えた。
俺はどうなのだ。こんな事であの父上のような父になれるのか。

人を。

其処でぞっとし、思わずこの方の温かい掌から我が手を引き抜く。
急いで引いた拍子に、指に嵌めた金の輪が滑る。

「・・・ヨンア?」

急に空になった小さな手、そしてその中に残された金の輪を、信じられぬ様子で鳶色の瞳が見る。
その瞳が上がり、続いてこの眸を覗き込む。

触れてしまったら。
この世の誰より愛おしく大切なこの方が身籠ってくれた、この世の何より清らかな、まだ顔すら知らぬ大切な子に。

人を、散々斬って来たこの手で。

何処かの母が今のこの方のよう大切に腹に抱え、この世に生を享けたそんな命を、今まで散々奪って来たこの手で。

「ヨンア、どうしたの?」
「・・・俺は」

母上は俺を身籠り、その御命と引き換えに産んで下さった。
きっと今のこの方のよう大切に腹に抱え、長い日々を耐え、長患いの病床でも俺には笑顔しか見せず。

もしもこの方が、そんな風になるなら。
己の命と引き換えに子を助けろ、もしそんな風に言ったなら。
俺は選んでしまう気がする。迷う事なくこの方を。
それでどれ程この方が悲しむかを、もう既に知っていても。

こんな男が父親になれるのか。 なったところで子は幸福か。
「イムジャ」

その声にこの方の顔が固くなる。
「ヨンア、嬉しい、よね?」
小さな手がこの掌を探して伸びる。
「・・・イムジャ」

俺は、決して忘れないだろう。
この方が幾度となく、その命までを賭して、俺に明るい道だけを示し続けて下さる事を。
こんな風になっても諦めず、この手を引き導こうとしている事を。

決して忘れないだろう。
それでもこの両掌が今まで何をして来たかを。
この両掌が肌の奥、骨の髄まで、朱黒い血で染まりきっている事を。

「父になって、良いのですか」
「え?」
「こんな俺が父で、子は」
「ヨンア」

その声に首を振ると、あなたは俺の手を取ってもう一度この指にゆっくりと、その手の中に残した金の輪を嵌める。

「びっくりさせて、ごめんね」

そうしながらその瞳で、静かに俺を見詰める。
そこには穢れも侮蔑も何も無い。
ただ愛する男を見る女人、俺を見るあなたの、何処までも深く澄んだ想いだけがある。

「何も聞かないで、急に触らせようとして」

そしてあなたは鳶色の瞳で、花のように笑う。
そこには秋の淋しさも冬の厳しさもない。
ただ春の庭の中、夏の陽射しの中の、包むような優しさと明るい眩しさだけがある。

「でもね」

もう一度握られた掌は、あなたの顔へ導かれる。
そしてあなたはこの掌をその白い頬へ当て、瞳を閉じる。
閉じてしまった瞳の奥が、どれ程優しいか俺は知っている。

「恥じる事なんて、一つもない。私が誰より知ってる」

もう一度瞳が開き、紅い唇がこの指先へ落とされる。
幾度も清めるよう慰めるよう、全ての指先に唇が当たる。
その温かな柔らかさに、今までの俺の全ては赦されていく。

「ヨンア」

止まるなと。惑うなと。信を貫き、義を曲げるなと。
今までの道に、失敗はあっても間違いはなかったと。

そうだ、何度でも。この方はそういう方だ。
だから俺は、あの場所で帰りを待っていた。
戻ると信じこの方を待ち続ける事が出来た。

「・・・はい」
「あなた “が” お父さんがいいの。あなたでなきゃいや。あのね、赤ちゃんは空の上で、皆で順番を決めるんですって。
どのアッパとオンマを選ぶか、決めてから生まれて来るんだって。
この子もそう。あなたを選んで、そして生まれてくるの。
アッパの子になりたいよ、それ以外のお父さんじゃ嫌だよ、そう選んで決めて、私たちのところに来たの。ねえ、ヨンア」
「・・・はい」
「あなたはとっても素敵なお父さんになる。この世の誰より。それはね」

あなたは、今まで見た事のない瞳で俺を見つめた。
静かで暖かく、優しく清らかで、けれど真直ぐに厳しく。

「あなたはこの世の誰より、命の重さと尊さを知ってるから。
私たちの愛するこの子に、誰より正しい道を教えられるから。
人がつながってく意味を、この子にまっすぐ伝えられるから」

その言葉、その重さに、あなたの平らな腹を見る。
その中に宿る、今はまだ声すら届かぬ俺達の子。

典医寺の春の陽射しの中、その木床へと膝を折る。
窓外から射し込む木漏れ日の縞の床の上。
膝をついた俺は、そのままあなたの腰を、この両腕で抱き締める。

この眸の前に、昨日までと変わらぬあなたの体がある。
平らな腹、細い腰が、その白い衣の向こうにある。
それでもその中に、俺達を選んで来てくれた命がある。

膝をつき、この掌で平らな腹に触れる。
布越しの暖かさを撫で、そしてそこへ顔を寄せる。

赦された事。俺が伝えるべき事。
我が子に、そして我が子を宿して下さった、この世の誰よりも何よりも愛おしく、貴く、強く、美しいあなたに。

その細い腰。俺の両腕が今、あなたと子を抱く。
その二つの命の意味と重さ。

俺は今日、こうして父になる。

あなたはきっと、こそばゆくなったのだろう。
恥ずかし気に笑っているのが、衣越しに捩る身の震えで判る。
金の輪を嵌めた細い指が、小さな膝に頭を預け、腹に顔を寄せたままの俺の固い髪を幾度も緩やかに梳る。

「愛してる、ヨンア」

その声に頷き顔を背け、どうにか隠す涙を優しい膝に落とし、俺は声を返す。

「愛している、ウンスヤ」

愛している。俺のあなたを。母になったあなたを。
そしてまだ見ぬ、この腹の中の俺達の子を。

愛している。

 

 

 

 

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