2016.05.05 貴音～序～さらん

2016 再開祭｜貴音～序・前篇～

【貴音～序～】

「･･･ヨンア？」

宵の縁側の膝の上。
昏い庭へ投げていた眸を戻し、小さい声に耳を欹てる。
「はい」
「ごめんね？」

何に詫びているのかすぐ判る。
そして詫びる必要など何一つない事も。
安堵させるよう抱き直し、亜麻色の髪に鼻先を埋める。
「何故ですか」
「え？」
「そんな男に見えますか」
「それは･･･ほら」

気分がどうにも優れぬと、寝台の上で申し訳なさげに伝えられた最初の夜。
今より五日ほど前の事だ。

いつもそうして下さるように触れても、そして額の熱を測っても、特段いつもと違わない。
少なくとも医の素人の俺では判じられない。
翌朝の日の出と共にキム侍医の処へ飛んで行き脈を取らせても、特に変調はないと言う。

「食べ過ぎたのかも。胸やけがするし」
この方は俺の横、早朝の典医寺の診察部屋の中で、俺にとも侍医にともつかぬ早口で言い訳をした。

「何処も悪くはないな」
真直ぐこの眸に向かい合った侍医は、確りと頷いた。
「少なくとも今の脈で心配な処はありません。ただ血がよく巡り過ぎかと。ウンス殿は普段血虚がちですので」
「確かだな」
「はい。但し今の処は、です」
「･･･承知」
「ご様子が変われば、すぐに教えて下さい」
「ああ」

頷いてこの方の横、椅子を立つ。
最後に腰掛けたままこの眸を見上げる、明るい鳶色の瞳を覗き込む。
「大丈夫ですか」
「うん、心配してくれてありがとう」
「此処にいて下さい。何かあればすぐ侍医に」
「分かった、そうする」

二人して額を突き合わせ、この方ですら理由の分からぬ不調をあれこれと詮索しても始まらん。
キム侍医の言葉を信じるしかない。
この方が俺を置いて行くわけが無い。
少なくとも置いていく程の病に倒れるなら、その前に必ず気付く。
医の道には素人でも、それだけは自信がある。

こうして触れていても、その小さな手を握っても、細い指を一本ずつ己の指で確かめても。
向き合った白くすべらかな頬も、明るい瞳も、紅い唇も柔らかな髪も。
いつものこの方だ。昨日も見た、一昨日も見た、逢えぬ時は夢で。
そしてこの瞼の裏で追いかけ続けて来た通りの方だ。

それなら行くしかない。迂達赤が、王様が、役目が待っている。
「無理はせず」
「分かった」
「何かあれば迂達赤へ」
「分かったってば」
「テマナを置いて」
「テマナにはあなたの補佐の仕事がある」
「俺は」
「･･･ヨンア？」

いよいよ不機嫌そうに、柳眉の間に皺が寄る。
これ以上を諦め小さく顎で頷くと、眉間の雲が途端に晴れる。
そうだ。その三日月に緩む瞳も、昨日までと何一つ変わらん。

「参ります」
「早く行って。みんな待ってる」
「参りますが」
「が、じゃないってば」
「･･･判りました」

最後に息を吐き診察部屋の扉へ向かう背に、明るい声がかかる。
「行ってらっしゃーい、あとでね！」
鎧の肩越しに振り返る。
小さな顔横で振られる両の掌に、その瞳にどうにか少し唇を上げる。
そして二度と後を見ぬように顔を戻す。

きりがない。
見ても見ても、まだ見たい。
聴いても聴いても、まだ聴きたい。

*****

「ウンス殿」

キム先生が、何気ない様子で切り出す。
「うん、病気じゃない事は分かってるの。毎日決まった時間に自分で脈診してるもの、脈診の練習に」
そう言うと、キム先生も首をかしげる。

「はっきりした事はお伝えできる段階ではありません。医仙であるウンス殿が一番御存知とは思いますが」
「そうなのよね。でもこれ以上は待ってみないとねぇ。テスト薬があるわけでもないし」
「ええ」
テスト薬が何かは分からないんだろうけど、待つしかないってところにキム先生は頷いたみたいだった。

あの人が名残惜し気に何度も振り返って出て行ったあと。
典医寺の診察室で向き合うキム先生に、頭を下げる。
「先生にまで秘密の片棒担がせたみたいで、ごめんね」
「チェ・ヨン殿の為です。糠喜びはして頂きたくない」
「うん」
「気を病むだけでも月の物は遅れます。ウンス殿もゆったりと」
そのキム先生の声に、私はゆっくりドアの外を見る。

敏感なあの人が、変な気を回さないように。
そしてぬか喜びで終わらないように。

つわりの始まる時期は人それぞれ。
妊娠7か月まで不正出血とも違う出血があって、全く妊娠だと思わなかった、太ったと思って最初内科を受診して仰天した人もいた。

よくドラマにある、急に立ちあがってトイレに駆け込むような分かりやすい吐き気だけじゃない。
浮腫、発熱、動悸、体重の増減。
妊娠後期まで続けば、最悪の場合妊娠中毒症を発症しないとは限らない。
今はまだ何も分からない。次の周期が来るまで。
それで来なければ、かなり確実だとは思うけど。

あの人が出て行った後、開いたままの診察室のドア。
外はどんどん明るくなって、春の庭から鳥の声が聞こえ始める。
緑がきれい。お日様がきれい。鳥の声がきれい。

ああ、高麗はとってもきれい。
こんなきれいな世界に、きれいな季節に、大切なあの人と一緒にいられてよかった。
「春ねえ」
「･･･ええ」

ドアの外を眺めて突然言った私にびっくりしたのか。
キム先生はドアの外を同じように見ながら、私を横目で確かめる。
そうなのよね。ただ毎年来るみたいに春が来た、それだけなのに。
「ウンス殿」
「･･･うん、きれいで」

私はこらえきれなくなった涙で、ドアの外の景色がぼやけたままでどうにか頷く。
「本当に、御懐妊かもしれませんね」
「･･･なんで？」
「私は男ですから、医官の目から、知識からしかお伝えできませんが」
キム先生は困ったみたいに少し笑う。
そして治療台の枕元、器具を並べた小机の上の布を取り上げて渡してくれる。

「女人は子を身籠ると、気の揺れが大きくなります」
「そうなの？ホルモンの関係ね」
「ほるもん、はよく判りませんが」

渡された布で涙を拭く私に少し笑いながら
「ただその分、気鬱にもなりやすい。辛い時はすぐにおっしゃってください。溜める事だけはせぬように」

そう言ってくれた先生に、私は笑って頷いた。

始めました。2016 再開祭。

リクエストは、ウンスが妊娠して喜ぶヨン、無事出産までこぎつけて、
ウンスと我が子に初めて会うヨンの姿が見たいです。（みゅうさま）

実は、以前既に上げているカテゴリーの中に
【貴音】というのがあるのをお気づきの方もいらっしゃると思います。
私はこのお話でウンスの妊娠出産を書くつもりでした。

但し今回のリクエストに関しては基本的に全てお受けするので、
此処から続いて行くようなお話を。
ただ申し訳ありませんが、やはりすべてを書く事は出来ない為
出産、そして抱っこまでは、本編をいつか上げる時をお待ち頂ければと思います❤

57 件のコメント

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さらん様のお話がまた拝見できることが出来て、とても嬉しく思います。
あぁ～、幸せ(*´ω`pq゛

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