【春雷】
「びしょぬれじゃない!」
気紛れな春の雨にずぶ濡れた頭の先から滴を落とし、典医寺の薬園をあの方の部屋まで駆ける。
気休め程度に濡れた両肩を叩き、頭を振って髪の雫を払い、叩いて訪いを知らせる前に扉が騒々しい音で内側から開かれる。
小さな叫びと共に、その内から此方を覗くあなたに顎を下げる。
「・・・何故」
「見てたのよ、急に降り出したから心配で。あーあ、やっぱり」
いつもなら真直ぐ額へと伸びる小さな手に握る手拭いを差し出し、この方が大きく扉を開く。
「チュホンは?大丈夫?」
「未だ厩からは出しておりません。軍馬ですから雨くらいでは」
「それなら良かった。急な大雨だし」
「ええ」
兵舎を出る時には間に合うと思っていた。
しかし思ったよりも雲は早く、雨脚は強かった。
典医寺の庭の春景色は叩きつける雨の中、真白に煙っている。
烈しい雨音に交じって遠くから響く低い雷音に眉を顰め、俺は後ろ手に戸を閉めた。
この方の部屋の入口、お借りした手拭いで濡れた顔と衣服を拭う。
「ああ、そんなのいいからヨンア、あったかいからこっちに来て」
この方がそうおっしゃりながら、部屋の奥の卓前から手招く。
「雫が」
このまま部屋を進めば水溜りが出来るほど、衣も沓も濡れている。
衣の肩を絞れば其処からも、音を立てるほどに水が滴った。
「いいってば。それよりそのままじゃ風邪ひくわよ」
「問題ありません」
「キム先生に何か借りて来ようか?」
「すぐ乾きます」
「どうしてそう頑固なの。自分で言ったんじゃない、雫がって。それくらいびしょぬれだって分かってるくせに」
渋々頷く俺に息を吐くと、この方は突然言った。
「脱いで」
「・・・は」
「アイロン、ああ、火熨斗で乾かすから。その間は脱いで」
「帰りましょう」
「この雨の中を?どうやって?」
この方が目で指す窓の外。
確かに厩まで歩くどころか、典医寺を出るまでにこの方が濡れてしまうだろう。
外套で包んで護れるような生易しい降りとは違う。
まるで軒下の地に穴を穿つ勢いで、滝のような雨が落ちる。
濡れた己はともかく、この方を雨に打たせる訳にはいかん。
「取りあえずアイロン頼んで来るから。ちょっと待ってて」
動きを止めた俺を見て、この方は部屋の裏扉を抜けて行く。
*****
「まだ脱いでないの?!」
駆け戻ったこの方が裏扉から顔を出し、濡れた衣を纏ったままの俺に向け呆れ声を上げる。
「今準備してくれてるから。ちょっとヨンア、本当に頑固なのもいい加減にして。早く脱いでってば」
「イムジャ」
「なに」
「本当に」
「帰れないんだもの、仕方ないでしょ。恥ずかしがってる場合?風邪をひかれる方がよっぽど心配だわ」
「だからと言って」
「ねえ。言っとくけど、変な下心なんて全くないわよ。こんな風にグズグズする暇があったら、早く乾かせば雨さえ止めばすぐ帰れる。そうでしょ?」
確かにこの雨では身動きが取れん。
こうしている間にも肚まで響くような雷音は近くなり、空には幾度も浅紫の閃光が光る。
「衝立をお借りして良いですか」
八方塞がりな気分で、俺は衣の袷紐に指を掛けた。
雨に濡れ黒く色を変えた藍の上着。その下に着けた上下の衣。
次々に紐を解き、衝立へと掛けて行く。
ずしりと水を含んだ衣の山が、裾から床へと盛大に水を滴らせる。
「えーと、寝台にある毛布を羽織ってて。さすがに下着まで脱げとは強要しないから。
出来れば脱いで寝台に入っててくれればすぐに乾かせるけど、嫌でしょ?」
「ええ」
冗談ではないと首を振ると、この方は頷いて微笑んだ。
「じゃあすぐ頼んで来る。お茶も持って来るから待ってて」
「はい」
「ちゃんと火鉢に当たっててね?」
「・・・はい」
水の滴る衣の山をその両の腕に抱え、この方は顎で寝台を示す。
最後まで身に着けた下衣はそれ程に濡れてはいない。
心許ない気分で衝立の影から腕を伸ばすと、寝台の端の畳んだ毛織物を指先で引掛けるように奪い、肩の上から乱雑に覆う。
一刻も早く雨が止むか、一刻も早く衣が乾くか。
雨が止めば濡れた衣であっても纏っても帰れる。
衣が乾けばあの方の前で気まずい思いはせずに済む。
どちらが先でも良い。こんな気分は真平だ。
この雨の中、外からの足音が聞こえる訳もない。
目下の敵がいないからとて、裸同然の下衣だけでこの方の部屋に。
肩から纏う織物を今一度確りと巻きつけ、衝立の向こうの窓に寄る。
僅かに覗く空は先程より一段と黒く昏く、雲は低く立ち込めている。
そこから落ちる雨は勢いを増し、地面は其処此処に小さな川を作る。
何より気に掛かる雷音は、山の夜に出喰わす熊か虎の咆哮のような唸りを繰り返しながら、すぐ目と鼻の先まで迫って来ている。
止む気配は全く無い。深く吐いたこの息で、窓は白く曇った。

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春の雨でも 濡れて 冷えれば
風邪引いちゃう。 ヨンの心配はもちろん
チュホンまで… 大事な相棒だし…
ウンスに言われれば 素直に
脱ぎ脱ぎ… 躊躇いはあるものの
ウンスを困らせてはね~
武士ですから… 女人の前でこのような
格好はできませぬ… ぐぬぬ
あきらめて。 (* ̄Oノ ̄*)
はぁ~ ため息出ちゃうね