鉄原までの懐かしい道中。早馬を駆る鞍からでは、碌々味わう事すら叶わぬ。
しかし今は馬の脚を止め、降りて思い出に浸る時でもない。
心は焦る。焦ったところで脚が早まるわけではないものを。
却って馬を疲れさせるだけだ。
倒して風を避けていた体を起こし、腹に入れていた踵を緩めて速度を落としつつ、誰にともなく苦く笑む。
己まで焦りに罹ってどうする。医仙に関わって焦り過ぎるあの男を窘めるのが役目だろうに。
馬の背で息を吐き、それでも、と首を振る。
あの甥の、あの医仙の、幸せな姿が見たい。
長い時を経て今があるからこそ、これ以上は離れさせるのはさすがの己も酷だと判る。
まさか離れた五年前、医仙が戻るとは思わなんだ。
丘とやらに通い詰めている。
そう聞いた時には此度はどうやって諦めさせようかと、目前が真暗になった。
生きて行けん。あの方なしでは。
そう呟いた声を知っているから、そして死ぬように生きた以前のあ奴を知っているからこそ。
あの二人ならば、嫌って離れる事など有り得ぬ。これでもしこの後、医仙に万一の事があれば。
敵なり病なり、事故なり戦なり、医仙の命が終える事が起きれば。
その時こそあの男には何の躊躇もない。
その時には、最早あの男を止められる者はこの世に誰も居らぬ。
あ奴にとって医仙は、この世に留まる唯一つの理由。
そう判るから護るしかないではないか。あの甥もそして甥嫁も。
全くあ奴も厄介な病に罹ったものだ。それもあの性格からして治るとは思えん。
私には想像も及ばぬ、恋慕の病とは。
たとえ医仙の天界の医術を持ってしても、治療は無理だろう。
そもそもその医仙が原因だから始末に追えぬ。
ならばせめてこれより悪くなる前に、滞りなく婚儀を挙げさせてやらねば。
訪れた山寺。開京よりも空も木々の色も秋が深い。
舞い散る葉の中で山門をくぐり、本堂まで辿り着き扉から内へ声をかける。
「和尚様」
磨き上げた光る木の柱の立つ本堂。その中に据えた御本尊の前、和尚様が振り返る。
「おお、崔家の尚宮殿ではないか」
「・・・和尚様、その呼び方は」
皇宮に入る前から御存知の私に尚宮殿もないものだ。
思わず顔を顰めた此方に向けて、和尚様がゆっくりと頷いた。
「本当に尚宮殿であろうに」
「それはそうでございますが」
「ヨンから文が来ておったよ。婚儀を挙げたいと。尚宮殿も勿論のこと参列されるのであろう」
「・・・文でございますか」
「ああ」
和尚様は鷹揚に頷くと
「丁寧な文だった。この寺で挙げたいとな。相変わらず伸び伸びと闊達な良い字を書く。
久しく会っておらんが、立派になったろう」
「体ばかり大きくなりました」
「叔母は手厳しいのう」
「和尚様、実は」
笑う和尚様に声を掛ける。
「その婚儀の件ですが」
俄かに険しくなったこの声に、怪訝な和尚様の目が返る。
「もし和尚様にお許し頂ければ、処はあの男の宅に変えさせて頂いて宜しいですか」
「ヨンのかい」
「はい」
「それは構わんが、訳を聞いても良いかね」
「・・・実は」
己だけが知っていれば良いのか。和尚様の事は長い間知っている。
信用できる方だ。まして当日の事を考えれば。
「大変尊い方が、あの男の婚儀に御参列頂けるので。但し開京より遠出は出来ぬ方々故」
此方の言葉の裏を汲んで下さったのだろう。和尚様は暫しの無言の後、目許を綻ばせ頷いて下さった。
「・・・・・・そうであったのか」
「はい」
「まあ尚宮殿と、ヨンだからのう」
「近々あ奴より、和尚様へと直接お願いがあるかと」
「儂は構わんよ。何処へでも喜んで出向こう」
「ありがとうございます。そして伏してお願いをもう一つ」
重ね重ねの我儘に、思わずこの頭を低く下げる。
「どうしたね」
「恐らく日取りのお伺いがございます。その際には今日より七日程、空けて頂けぬかと」
「下準備があるのかい」
「はい」
「お前も難儀だねえ、エスク」
「・・・畏れ多い事でございます」
「それも御仏のお導き。精進するが良い」
「はい」
手の中のお数珠を鳴らす和尚様に、改めて深く頭を下げ返す。
「しかし尊い方の前に、拙僧が経を上げるなど許されるかね」
「何をおっしゃいます」
私の声が本堂の壁に小さく響くのに、和尚様が困ったように首を振る。
「落ち着きなさい」
「和尚様には甥どころか、崔家の者が皆代々お世話になっております。冗談でもそのような事は」
「ああ、済まん済まん」
和尚様はおっしゃいながら、開いた本堂の扉の向こうの秋の山へその目を遣られた。
「のう、エスク」
「はい」
「あのヨンが嫁を取るとは。拙僧も道理で、冬のお勤めがきつくなって来るはずだ」
「そうは見えませんが」
和尚様は懐かしそうに、庭の柿の木を指した。
秋色の丸い実が幾つか残ったその枝を眺めつつ
「あの一番下の枝に成った実も取れなかったヨンがのう」
和尚様の言葉に頷きながら思い出す。
「最後に此方へ伺った時には一番上の枝の実を捥いで、兄に大目玉を喰らっておりました。お寺の木を傷つけるなと」
まるで昨日のようだ。
義姉上の、ヨンの母君の法事に訪れたこの山寺で、小さな甥があの柿木に登った。
姿が見えぬと我々が総出で寺中を探すと、あ奴が木の上から大きく手を振り下の我らに嬉し気に言った。
「和尚様、この柿を頂いても良いですか」
その声に木下から、兄上が低く籠った怒りを抑えておっしゃった。
「今すぐに下りよ、ヨン」
素直に頷き、ヨンは器用に幹を伝って軽々と地へ降りて来た。
「何を考えておる」
父君のお怒りの声に、ヨンが小さな頭を下げた。
下げた拍子にその懐から、丸い柿の実がふたつみつ転がり出た。
「尊いお寺の木に登り、その実を傷つけるなどあってはならん」
「・・・はい」
「和尚様にお返しせよ。二度とするな」
「はい!」
嬉しそうに笑んで頷き、あ奴の小さかった手がその懐へ入った。
出て来るは来るは、中からころころと柿の実を取り出し、全てを和尚様の脇に控えた小坊主へ渡して、ヨンはにっこりと笑った。
まるでその日の、秋の空のような晴れ晴れとした明るさで。
今とそっくり同じあの目許と、意志の強い眉で。
「これで全てです」
そう言って。
「知っておったかい」
あの日を思い出させる秋空の下の柿木を見つめたままだった私は、独り言のように呟く和尚様へと顔を向け直した。
「何をでしょう」
「ヨンはやはり誰にも言わなんだか」
「何をでしょうか」
突然変わった和尚様の話の風向きに眉を寄せる。
「あの頃、小坊主が足を酷く挫いていてな」
「・・・初耳です」
「柿の実は熟れて来る、すぐに捥がねば鳥や獣に喰われる。寺の冬の食糧が乏しくもなる。
小坊主が、ヨンに頼んだのだよ。柿の実を、自分の代わりに全て捥いで来てくれぬかと。
和尚に知られれば叱られる故、内緒でとな。いい加減後になってから、小坊主が儂に白状しおった。
それでもあの子はしっかりと一番上の木守の実だけは捥がずにな。
ああして御父上に叱られても、言い訳一つせずに頷いておった」
その声にもう一度柿木を見上げる。
その一番高みの枝の上、一つ残った丸い秋色の実。
来年の豊作を望む木守の柿の実が見える。
三つ子の魂百までか。あ奴はあの頃から馬鹿だったというわけだ。
こうして和尚様に伺わねば、知らずにあの世に行くところだった。
兄上に、これで申し開きも出来る。相当に時間が経ってはいるが。
「そんなあの子の婚儀だ。儂とて出来る事は何でもする。今より七日と言ったか」
「はい」
「ではヨンより便りを受け次第、その日を伝えよう」
「なにとぞよしなに」
本堂の扉外、明るく輝く陽の下に立つ柿木を並んで見つめつつ、和尚様と交わす思い出話は切上げるには惜しすぎる。
しかしいつまでもこうしている訳にはいかん。皇宮へ戻って、成すべき役目が山積みだ。
思い出に浸るなら、幼かった頃からのあの甥に想いを馳せるなら、この一世一代の婚儀の後だ。
己を奮い起こし、私は背を伸ばし直した。
「それでは、どうぞよろしくお願いいたします」
「戻られるか」
「はい」
「さすが皇宮の尚宮殿は忙しいのぅ」
和尚様はそうおっしゃると、鷹揚に頷かれた。
「秋も深くなって来た」
「どうか御体にはお気を付け下さい」
そう言い合いつつ本堂の扉まで来ると、和尚様が最後に私をじっと見る。
扉を背にした私の顔は、逆光の中、見えにくくていらっしゃるのだろう。
私が合掌し深く頭を下げると、穏やかな目を細め和尚様も合掌される。
「甥も良いが、ご自分はどうするね」
その問い掛けに苦く笑う。
「お戯れを」
「儂が元気なうちに挙げておくれ。取り仕切ってしんぜよう」
「・・・心得ました」
互いにそう軽口を交わし合い、私は扉外へと踏み出す。山門前の馬を牽き、山道をゆっくりと下る。
跨いで駆け下りれば瞬く間だろう。それでも少しだけ歩く。次にいつこうして、一人長閑に秋景色を眺められるか知れん。
次に此処へ伺う時この手は手綱ではなく、あの手の掛かる甥と甥嫁の間の、珠のようなやや子の手を握っておるかも知れん。
怖や怖や。あの無鉄砲な馬鹿者二人の間のやや子など。
秋の山道、枝々に残る葉の隙間から眩しい陽が射し込む。
その木漏れ日の中、私の忍び笑いと馬の蹄の音だけが響いた。
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