チェ・ヨンが足音高く踏み込んだ典医寺の診療部屋。
医官や薬員が その足音に一斉に振り向き、嬉し気に頭を下げた。
「大護軍様!」
「どうされました」
「ウンス様は今、坤成殿で王妃媽媽のご診療中ですが」
ヨンは僅かに首を振る。口々にそう出迎えてくれるのは有難い。
有難いがこの中の誰かが口を割ったのかと、押し黙ったまま考える。
あの時喜びの余りあの方を抱き締めた事を、もしやちらりとでもその口端にあげたのかと。
いや、それは逆恨みだ。己の責だ。
考えなく手を伸ばした。悔いる前にあの小さな体を、力一杯己の腕に閉じ込めた。
唇を噛み気を鎮め、その場の誰にともなく低く問う。
「キム侍医は」
「奥で薬を煎じておられます。お呼びします」
走りだしそうなその薬員を手で制し、ヨンは頷いた。
「俺が行く」
「畏まりました」
薬員が満面の笑みで頷く。その脇を擦り抜けながら心は重い。
何故どいつもこいつもそれ程に明るい笑顔でこの背を見送るのだ。
頼むから、あの時の事は忘れてほしい。
考えなしだった。ただ嬉しさに流された。あってはならぬ事だ。
キム侍医が本当にそれ程の名医であれば、あの時この場に居合わせたその全ての者たちの記憶を、鍼か薬で消してほしいほどだ。
そう考えながらヨンは診療部屋の奥の扉を押し開く。
途端に部屋内からの、煎じ薬の濃い香りが鼻を突く。
侍医は大きな窓の前。
据え置いた火鉢の上に紙蓋をした黒い陶薬缶を並べながら、開いた扉の此方へと肩越しに目を投げた。
夏の昼の暑さに加え立ち上る薬湯の煙で、部屋の中は噎せるような熱い空気に満たされている。
その空気の中、侍医は視線の先でヨンを認め目を見開いた。
「どうされました」
「聞きたいことがあって来た」
ヨンはそれだけ告げて、大股で扉内へと進む。
窓の桟に凭れるその姿を見つめ、キム侍医は微かに首を傾けた。
己の責と分かるが故に、ヨンは問い掛けに躊躇する。
「侍医」
「はい」
穏やかに言って、目の前の侍医は次の言葉を待っている。
「お前、まさか」
「はい」
「まさか、誰にも言ってはおるまいな」
「何の事やら・・・」
そこまで言う侍医の目は、本当に判らぬのか迷いなく澄んでいる。
いや、こ奴のことだ。根性悪だという事だけは、もう判っている。
どこまでその言葉を信頼できるものかと計りあぐね、ヨンは穏やかなその顔を見つめる。
「・・・ふ」
次の瞬間、侍医が堪え切れぬと言った様子で小さく息を吐く。
「もうお噂が耳まで届いたのですか」
「・・・どういう意味だ」
「ウンス殿と、チェ・ヨン殿の抱擁の件では」
「広めたのはやはりお前か!」
思わず口を突くヨンの怒鳴り声に、キム侍医は首を振る。
「滅相もない。私は口止めした側です」
「何」
「あの時あの部屋に居った典医寺の者たちに、口外するなと」
「そうなのか」
侍医は肩を竦めて目を細め苦く笑む。
「私は、ほとほと信用がないようですね」
「それは」
「それでも」
と呟き、侍医は困ったように薄く口元を歪めた。
「出入りする下働きのものかもしれません。ここは現在、私の管轄。
私の不行き届きで、チェ・ヨン殿には面目を失わせ、申し訳なく」
「それは仕方ない。考えなく動いた己の責だ」
「しかし不思議です」
侍医はそう言いながら、薬缶の紙蓋を指で開いた。
「何がだ」
「私の耳も噂は届いていました」
「早く教えろ」
「無論、悪意ある噂ならとうにチェ・ヨン殿にお伝えしております」
首を振りながら蓋を戻し、薬缶を火から下すと独白のよう呟く侍医の声に、ヨンが眸で続きを促す。
「悪意ある声が、一つとして聞こえてこないのです」
そう言って侍医は椅子に腰かけた。
「申し訳ないが、チェ・ヨン殿がそれ程人好きするとは思えません。ぶっきら棒ですし、愛想もないですし」
「・・・なかなか言うな」
「生来ですから」
「で」
「それでいて、そのお若さで大護軍という大役を担っておられる」
「で」
「奥方となる方は、王妃媽媽のご信頼もご寵愛もひとかたならぬ天上のお方です。
あの美しさもそして医術も、並ぶものなし」
「余計な事は良い。で」
「地位の高い、生意気な若造が、この世の者ならざる方を娶る。
そんなチェ・ヨン殿を目の上の瘤と厭わしく思う者があって当然です」
耳に痛い事ばかり、よくこう正面から言うものだ。
ヨンは寧ろすっきりとした心持で頷いた。
「で」
「ところが、一つとしてそんな声が聞こえぬのです」
侍医は心底不思議そうに首を捻った。
「彼方此方に探りを入れてみましたが、頭の固い古狸の重臣どもが、ほんの僅かに愚痴る程度で。
それ以外の者どもは、民に至るまで祝賀の声ばかり」
「待て」
「はい」
「今、何だと」
「重臣どもがほんの僅かに愚痴る程度で」
「違う!」
ヨンは顔色を失い、侍医の言葉を遮った。
「民が」
「・・・はい」
「民が、俺の婚儀を何故知っている」
「チェ・ヨン殿」
侍医はその狼狽ぶりを面白がるかのようにゆっくり目を緩め、窓際のヨンをじっと見つめた。
「あなたを支え、讃えているのは民も同じです」
「・・・・・・」
「農耕期の民を決して戦には狩り出さぬ。取り返した物品や土地は一旦王様へお納めした後、平等に民の分を分配する。
ご自身は鉄瓶一つ持たぬと」
侍医の言葉にヨンは呆れて息を吐く。そんな事まで知られているのか。
「民とて耳も目もある。愚かではない。弱い立場故、誰が自分たちを守るかをよく知っているのです」
「だからといって」
「ああ、ご安心ください。民は大護軍の事はよく知っておりますが、ウンス殿の詳細は知らぬ様子です。ただとても美しい方としか」
「詳細が露見せぬのは良いことだ、しかし」
己の目論見が、悉く外れて行く。民までが知っているだと。
ヨンは窓桟に凭れたまま、考え込んだ。
あの方を娶り、静かに暮らせればそれで良いはずだった。
もしも何れ子を成し、崔家の名を残せれば、己には過分の倖せだと思っていただけが。
たったそれだけの事が何故ここまで大騒ぎとなる。一体何の因果なのだ。
しかし、とふと思う。
たかだか典医寺の下働きが数人口を滑らせた程度で、一介の兵の婚儀がそれほどまでに広まるものか。
「侍医」
「はい」
「お前のせいでは、ないかもしれん。俺の婚儀を知っている奴に当たれ。誰から話を聞いたかを」
師叔。マンボ。まさか。
民の隅々にまで噂を行き渡らせるのに、手裏房のあの二人より適任な者をヨンは思い浮かべることはできない。
しかしまさか。それをしたところで、二人に何の得もないはずだ。
チェ・ヨンは凭れていた桟から身を起こし、無言で足早に部屋を出た。

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