或日、迂達赤 | 欣求浄土

 

 

【 欣求浄土 】

 

 

昼の名残の空気は、熱を抱いたまま重く沈んでいる。
纏わりつく熱い夜風の中で、薄い空気を吸い込んだ。

厭離穢土 欣求浄土。

禄に言葉すら交わせなかったお前らは、喜んで其処に居るだろうか。

 

「ヨンア」

夏の暑さに開いたままのあの方の部屋の扉をくぐる。
部屋の中あの方は、影の動きに気付いたように此方を振り向いた。
その顔を見れば安堵する。そして喪ったものの重さに立ち竦む。

足を止めればあの方は駆けて来て、両の腕で鎧ごと固く抱き締める。
ああ、知っているのか。
いつもなら帰還に騒ぐ筈のこの方の声が聞こえぬ事で気付かされる。

最悪に備え、最善を尽くす。
しかしどれだけ人事を尽くしても、天命には敵わぬという事なのか。
だが口が裂けても言えん。この口が言えば全て逃げ口上になるから。

「お帰り」

抱き締められたままで、その声が鎧の胸元から聞こえる。
そしてあなたは顔を上げ、其処からこの眸を真直ぐに見る。
それ以上の声は無い。

窓外から降るような蝉時雨が響く夕刻。
昼の暑さはまだ引かず、部屋に射し込む陽は紅い。

抱き締めていた腕は離れ、そのままこの頬へと当たる掌。
そして額へ、頸へ、最後にこの手首の血脈へ。

きっと其処は強く確かに打っているだろう。命の証として。
あなたの指へと伝えるだろう。こうして打つ一脈ごとに。
愛している。逢いたかった。もう離れない。共に居たい。

けれど護る為には幾度でも出陣し、そして何人でも斬る。
それが武人であり、承知で選んだ道だから悔いはない。

それでも喪ったものの余りの重さ。
どれ程人事を尽くそうと、天命の前に連れ帰れなかった命。
愛していると愛する者に二度と伝えられぬ奴がいる。
誰を責める事も出来ずに、ただ泣くだけの者がいる。

それがこの足を竦ませる。この息を詰まらせる。
そしてあなたは包み込むように、もう一度その腕を俺の鎧の背へ廻す。

 

「大護軍」
チュンソクが私室の扉から静かに入って来る。

「帰らないのですか」
「・・・今宵はな」
「医仙がお待ちでしょう」
「顔は出して来た」
「・・・は」

奴はそれ以上進むか戻るか決め兼ねるよう、入口前の階を降り、油灯の灯越しに三和土に座る俺を見た。
「乙組の隊員らが、霊廟に行っても良いかと許可を求めて」
「行かせろ」
「判りました。大護軍」

まだ去らん気かと眸だけで問えば、チュンソクは真直ぐ此方を見た。
「事故です。全員が知っています。真横からあれ程大きな商船に突込まれては、逃げ場はありませんでした」
「だから」

討死だろうと事故だろうと、生きて帰せなかった事だけが真実。
商船の舵向きがおかしいと判った処で、此方が舵を切れば良かった。
しかしそれを責めれば、船の舵を握っていた水営の立場がない。
商船の船主は迂達赤の乗り込む船と知らなかった、身代売り払っても御詫びはしますと、蒼白な顔で地面に泣き崩れた。

「霊廟に兵の親族も来ています。大護軍に御礼を伝えたいと」
「礼」
「は」
何の礼だ。
息子を、夫を、待ち続けた愛しい者を無事返せなかった将に、一体何の礼がある。

それでも逃げて黙殺する訳にはいかん。
深く息を吐くと、鉛のように重い体を三和土から引き剥がす。

部屋を出る麒麟鎧の背の半歩後、チュンソクが無言で従った。
並んで出た兵舎の表。
星の瞬き始めた空も、そして迂達赤を包む空気も重く暗い。

 

夜になっても引かない表の暑さが嘘のように、静まり返った霊廟の中。
無言で踏み込む二つの足音に気付き、壇前にいた迂達赤らが一斉に振り返ると姿勢を正し頭を下げた。
「大護軍」
「隊長」

蝋燭の灯の中でも、奴らの目が赤いのが見える。
「来て下さったんですね、大護軍」
「ありがとうございます。奴らも喜びます」

震える声でそう言って、乙組長が真新しい白木の位牌を眼で示す。
まだ名を彫る間もない、その白木の位牌に貼られた白い紙。
迂達赤殉烈士、そう書かれた真新しい墨文字。

喜ぶ。一体何に。
兵として戦場で散る事すら出来なかった奴らが、一体何に。

「もし」

折れる程に噛み締めた奥歯が鳴る。
怒鳴ろうとしたところで、壇前にいた一人の女人が声を掛けた。

「迂達赤大護軍様、チェ・ヨン様でいらっしゃいますか」
「・・・如何にも」
「ああ」
呼んだ女人は泣き濡れた頬に、腫れた眼から新しい涙を零して息を吐いた。

「あの人に聞いていた通りです」
「あの人」
「はい」
「大護軍。新入りのアンボクのご家族です」

アンボク、新入り。そう言われても顔すら朧げだ。
そんな情けない長に向かって、女人は深々と頭を下げる。

「どうしてもチェ・ヨン様の許で鍛えて頂きたいと、一旦入営した禁軍から迂達赤に転属させて頂いて。
心から喜んでいました。ようやく望みが叶ったと」

その声に思い出す。
入隊の武術試験の折、他の新入り候補とは比べ物にならぬ程優れた腕前の男がいた。

確かに訊いた。心得があるな。奴はそれに答えた筈だ。
一旦禁軍に入営しましたが、どうしても迂達赤入隊が諦められず。
名は。そう聞いた時言った筈だ。ソ・アンボクです、大護軍。

そのまま禁軍に残っていれば、こんな目には遭わなかった。
船に乗る事も、事故に遭う事も、最期に寒い霊廟に祀られる事も。

「大護軍様、本当に、本当にありがとうございました。あのままなら志半ばで悔しかったはずです。
大護軍様と一緒にいられて毎日とても倖せだと、入隊の初日から言っていました」
女人の声に、周囲に居た他の家族らしき者も此方に向かい次々に頭を下げる。
涙交じりの感謝の声。今までの思い出話の声が続く。

うちの息子は、私の許婿は。そして最後に判で押したように告げられる。

大護軍様といられて倖せでした。大護軍様を心から尊敬しておりました。

何が倖せだ。何が大護軍だ。俺に尊敬される理由など何一つない。
「チュンソク」
座の涙声が一息ついたところで輪から抜け、一歩離れていた奴へ近付き呼び掛ける。
「清めの酒と塩を御渡ししろ」
「は」
「今夜は遅い。船主と話がつき次第必ず報せると。遺品を御渡しして引き取って頂け」
「判りました。大護軍は」
「王様に御報告の後、兵舎に戻る」
「は」

残されたその場の全員に最後に一礼し、そのまま霊廟を後にする。
表へ出れば昼の名残の空気は、熱を抱いたまま重く沈んでいる。

纏わりつく熱い夜風の中で、薄い空気を吸い込んだ。

厭離穢土 欣求浄土。

禄に言葉すら交わせなかったお前らは、喜んで其処に居るだろうか。
あんなにも愛してくれる者が残る現世は、本当に穢土なのだろうか。

神も仏もない。ましてあれ程感謝される謂れなど何一つ。
だから忘れない。
お前らが共に居て嬉しいと言っていてくれた言葉だけを憶えておく。

今宵だけは逢いたくない。あなたにも、そして貴き方にも。
もう二度と愛する者に会う事の出来ぬ奴らの分まで。
もう二度と従うべき王命の声を聞けぬ奴らの分まで。

たまには良いだろう。思い出を肴に、一人浴びる程飲むのも。
どこに行くのか判らないまま、ただ熱い夜風の中を歩き出す。

アンボクです、大護軍。

その声を、嬉し気な笑顔を、記憶の彼方から引き摺りだして。

薄れぬように。忘れぬように。

こんな情けない長を、最後まで慕ってくれた奴らの事だけは。

 

 

【 欣求浄土 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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6 件のコメント

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    ヨンにしか わからない
    気持ちかも…
    ウンスも寄り添ってはくれるけど
    全部は わからないかも
    それほど 深い 深ーい思い
    割りきれる話じゃないし…
    明日は ウンスにいやしてもらってね

  • SECRET: 0
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    かけられずある(いる)言葉がある
    云われずにある言葉がある
    呑み込ん言葉がある
    ただ…想い…ただ…喉に塊があって…ただ……。

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    厭離穢土 欣救浄土…
    胸が締め付けられる思いで、お話を読みました。
    ヨンが大切にする、部下の兵士たち。
    彼等を、納得できない逝き方で、彼等の愛していた者たちから、彼等を愛していた者たちから、永遠の別れをさせてしまった…と、悩み、深い心の底に沈むヨン。
    辛いです…
    細やかな光、それは、
    永遠に会えない彼岸に逝った者たちは、敬愛していた、慕っていた、その背を追っていたヨンと共に戦場に立てたということを、喜び、誇りに思っていたらしいということ。
    霊廟で、ヨンは、彼等とどんな会話をするのでしょう。
    高麗の時代です。
    高麗の兵士です。
    戦には、必ず出なければなりません。
    敬愛するヨンの元で逝くことになったのは、彼等には幸せなことだったのだと思います。
    ヨン、彼等のためにも、また立ち上がってください。
    高麗を護る。
    王様と王妃様を護り、民を護り、ウンスを護る。
    ウンスは、ヨンの心を理解してくれています。
    今は、鎮魂…

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    いまの時代が、哀しみ溢れた穢土ならば、それが終わるように。
    大切なひとのために、此処に、『欣求浄土』を招きたい。
    誰もがそう望んで口にした言葉だとおもいます・・・
    願いと想いは、どこにも逝くことはなく、在り続けますね。
    戻ってきた、大切なお作の中の『言問』と共に、胸に迫りました。
    念願の、再読をさせて頂いております。
    本当にありがとうございます。

  • ヨンの人柄があらわれているお話ですね。ヨンを心から慕い、尊敬する部下、そして家族の気持ちを受け止めながら、部下の死に苦悩するヨン。ウンスやチュンソクの心使いも、その全てを救うことができないくらいヨンの心は沈んでいます。この辛さに耐えながらヨンは生きているんですね。

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