或日、迂達赤 | 半夏雨

 

 

【 半夏雨 】

 

 

白く乾いた鍛錬場の土の上、滴る汗が黒い小さな染みになる。

「終いか」
涼しいチェ・ヨンの声に、トクマンは顔を上げた。
己は地に座り込み、其処へ手をつき、ようやく立ち上がろうとじたばたしているというのに。
チェ・ヨンは額に汗の一滴すら浮かべず、風に髪を靡かせ、片頬で笑うだけだ。

「まだです」
どれだけ顎が上がろうと、一滴の汗も出ぬほど乾こうと。
絶対に弱音は吐きたくないとトクマンは意地で首を振る。

呆れたように太く息を吐くと、チェ・ヨンは眸を空へ投げ上げた。
そしてすたすたとトクマンに近寄ると、いきなりその頭を大きな掌でばしりと叩いた。
叩かれた頭を押さえ、トクマンが目を丸くする。
「て、大護軍」
「水を飲め。飲まねば死ぬ」
「あと少しだけ、鍛錬を。その後に必ず」
「焦っても上達はせん」

そうだ、俺は焦ってる。
それはトクマン自身が誰より分かっている。
しかしチェ・ヨンがこうして皇宮に戻る事も、最近は滅多にない。
今は殆どの時間、王命を受け北方国境、鴨緑江岸の元の軍事基地の奪還の指揮で皇宮を空けている有様だ。

チェ・ヨンが開京に戻る時。
まして己の槍の鍛錬に割いて貰えるこの時は、金銀よりも貴重だ。
呑気に水を飲むなど、勿体なくて出来る事ではない。

俺は俺の槍を見つけたい。そうでなくば何時まで経とうとあの男を超えることはできない。
俺は奴の代わりに大護軍を守りたい。そうしていかねば逝ったあの男に顔向けができない。

その一念だけが立つ力さえ抜けたトクマンの足を動かし、立ち上がらせようとしている。

地にべたりと座り込み、肩で息をし、流れた汗を吸った濃藍の上着の襟は白く塩を吹いている。
そのトクマンの様子を見ながら、チェ・ヨンは胸で呟いた。
このまま続ければ倒れる。
死なぬ程度の鍛錬を超え、死んでしまえば洒落にもならん。

夏が近い。
梅雨の晴れ間の鍛錬場は中天の強い陽に晒されていた。
己もトクマンも槍の歩を踏みかえる度に白い砂埃が舞うほど、からからに乾いている。
「トクマニ」

チェ・ヨンの呼び掛けに、地にへばったトクマンが顔を上げる。
「俺が疲れた。少し休ませろ」
こうでも言わねば、この男が休むと言うはずもない。
チェ・ヨンは言い捨て踵を返すと、鍛錬場の隅に切られた井戸端へ大きな歩幅で歩き始めた。

鍛錬場の隅、釣瓶で水を汲み上げ、上衣を諸肌脱いだトクマンは頭から冷たい水を浴びた。
髪から滴る水を首を振って弾き飛ばし、掌で顔を拭う。
そこで感じた違和感にトクマンは顔を拭う手を止め、己の掌をじっと見詰めた。

釣瓶をその足元へ置いたまま、掌を見つめるトクマンの姿。
少し離れた桜の木陰に腰を下ろしたチェ・ヨンが眺める。
トクマンは大きく肩で息をすると最後に足元の釣瓶を井戸の中へ放り込んで戻し、チェ・ヨンの座る桜の木陰へ歩いて来る。

己から少し離れた処へ腰を下ろしたトクマンの切れた息が整ってきたところを見計らうように、チェ・ヨンの声が飛ぶ。
「どうした」
問う声にトクマンがチェ・ヨンを見る。
「え」
「掌を見てたろ」
「ああ、はい」

頷いたトクマンは自身の両の掌をチェ・ヨンへ差し出した。
「いつの間にか、胼胝が厚くなったと」
チェ・ヨンは差し出された掌をじっと見る。
「良い掌になった」

そう言って頷く。
「槍遣いの掌だ」
その声にトクマンが嬉し気に破顔する。
「本当ですか」
「しかし胼胝が出来るのは、無理な力が加わっている証だ」
チェ・ヨンの声に、破顔した顔が引き締まる。
「はい」
「いつでも力一杯握るな」
「はい」
「振れるようにはなっている」
僅かに満足げなチェ・ヨンの声の響きと短い褒め言葉に、トクマンの顔が紅潮する。

「そろそろ重たくしても良い。柄の補強を考えろ」
「補強、ですか」
トクマンの不思議そうな顔に、チェ・ヨンは頷いた。
「穂が欠けても棍になる」
「はい!」
「皮でも良いが、強度と打撃を考えれば長覆輪も良い」
「はい!」
「チホと相談しろ」
「はい!」

こいつの手の長さと懐の深さは有利だ。
しかしまだ若い。勢いで槍に振り回される。
トルベのように操れるまでまだ時間がかかろう。
その間にどれだけでかい戦があるか判らない。

あの方が戻るまでに、少しでも彼の地を安全に。
万一俺の居ぬ時にあの方が一人で丘を降りても、無事に麓の村まで辿り着けるよう。
その為に俺は幾度でも戦場に立つ。何人でも斬り捨てる。

その時吹いた風の冷たさに、意識を戻したチェ・ヨンは空を見た。
先刻まで晴れ渡っていた空に、濃い灰色の雲が流れている。

「降るな」
チェ・ヨンの低い声に、トクマンが遅れて空を見上げた。
「せっかく大護軍に鍛錬をつけてもらえるのに」
腹立たし気に、トクマンが舌を鳴らす。
「焦るなと言ったろ」
「でも」
「少しは己を信用しろ」
「・・・はい」
「懸命過ぎれば目も曇る」
「はい?」
「見えるものも見失う」

その声にトクマンが大きく頷く。
「大護軍もですよ」

突然矛先の変わった声に、チェ・ヨンがトクマンを振り向いた。
「懸命過ぎれば目が曇って、見えるものも見失うんですよね」
その意を汲んだチェ・ヨンは、眉を顰めて立ち上がる。
「必ず戻って来ますから、信用して待って下さい」
チェ・ヨンはトクマンの前を通り抜けざま、その頭を思い切り叩いた。
「いて!!」
叫ぶトクマンを其処へ残し、チェ・ヨンは大きな歩幅で兵舎へ戻る。

 

「酷い降りだ!」

叫びながら、チュンソクが吹抜へと駆けこんで来た。
迂達赤の揃いの雨除けの外套は濡れそぼり、褐返色を濃くしている。
居合わせた兵の何処からか、手拭いが回ってくる。
チュンソクは被った頭巾を外し、手渡されたそれで顔を拭う。

「これでは直に川も溢れるぞ」
顔を拭いつつ言うチュンソクの声に、兵達が吹抜の天窓を仰ぐ。
その時吹抜の上階の廊下を塞ぐ大きな影に、兵の一人が嬉し気に叫んだ。
「大護軍!」

脇に一回り小さな影を従え、上階の影が頷いた。
「本降りか」
天窓を仰ぎながら階段を下りて来たチェ・ヨンは、吹抜でチュンソクに向かいあう。
「蔵に土嚢はどれほどある」
チュンソクはチェ・ヨンの声に姿勢を正して返す。
「かなりの量が残してあります」
「非番の奴らを集め、禁軍にも声をかけろ。康安殿と坤成殿に分かれて殿裏に積め。殿内への浸水を許すな」
「は!」
チュンソクが頷くと、吹抜の兵を見回して告げる。
「兵舎内の非番の奴らを全員蔵へ集めろ」
「は!」
声に兵達が頷いて、その場から散っていく。

チェ・ヨンは兵の様子を眺めながら、チュンソクを振り返る。
「トクマニは」
「は?」
チュンソクの返答に、チェ・ヨンは去って行く兵を目で示す。
「居ないだろ」
「そう言えば・・・」

確かに奴の頭抜けて丈の高い背が兵の中に見当たらぬ事に、チュンソクはようやく気付いた。
チェ・ヨンは息を吐くと
「テマナ」
低い声で脇に控えるテマンを呼んだ。
「はい、大護軍」
「呼んで来い。恐らく鍛錬場にいる」
「はい!」
テマンは吹抜の壁に掛けた外套を掴むと、羽織りながら表へ駆けだした。

 

翻る外套の裾に泥土を跳ね上げながら、テマンは鍛錬場へ走る。
降り出した半夏雨のせいで、鼻先すらも見えにくい。
鍛錬場で丈高い影を飛沫の向こうに見つけ、テマンは大きく声を上げた。
「トクマニ!」
その声に影が振り向いた。
テマンはそこへ走り寄る。

「テマナ」
ずぶ濡れのトクマンが、泥の地面へ握った槍の石突を突立てた。
「大護軍が呼んでる。すぐに来い」
それだけ言ってテマンは兵舎へ駆け戻る。
トクマンは息を吐くと、その背を追って駆け出した。

「大護軍」
「戻りました」
二人が口々に言いながら、吹抜へと戻る。
泥水を吸った沓が歩を踏み出すたびに濡れた音を立て、吹抜の土床に点々と水を含んだ足跡を残す。

吹抜の中央、腕を組んで立っていたチェ・ヨンは顎で頷いた。
「テマナ」
「はい!」
「先に蔵へ行け。チュンソクを助けろ」
「はい大護軍!」
頷いてテマンが駈け出す。

「トクマニ」
チェ・ヨンはそのまま渋い顔で、残ったトクマンを眺めた。
「はい」
「言ったろ。焦るなと」
「・・・はい」
「冷やして肩でも壊れれば、思うように振れなくなる。
それが嫌なら休む時は休め」
「はい」
チェ・ヨンを上目で見遣り、トクマンはようやく頷いた。

チェ・ヨンとトクマンが無言で向かい合う吹抜の中、烈しい半夏雨が天窓を叩く音だけが響き渡る。

皆焦っている。今はもう一度どうにか立て直そうと。
去った者の穴を埋め、己の成すべきことを成そうと。

半夏雨が止めば夏が来る。
あいつらが逝き、あの方が去り四度目の夏が。
時は止まらない。ただ流れて行く。この雨が流れるように。

「皆、蔵で土嚢を用意している。槍を片付けたらお前も行け」
「はい」
頷いて吹抜を出て行くトクマンを眺め、チェ・ヨンは踵を返し、私室へ戻ろうと階を上がる。

この半夏雨が終われば、暑い夏が訪れる。
大切な者が居られぬままの四度目の夏が。
暑い夏が終われば、五度目の秋がやって来る。
あの黄色い花を咲かせる、五度目の秋が。

此処にいる。此処にいる。

夢の中でだけ会える姿に囁きながら迎える季節が。

天界の薬瓶のあの花はすっかり色を失くしている。
一輪だけの黄色い花は胸の中、今も鮮やかに揺れている。

此処にいる。此処にいる。

あの丘に座り、一人で囁く季節がやって来る。

チェ・ヨンは階上の私室の扉を押し開く。
その向こう、窓前に立ち、大きすぎる鎧を纏い、笑いながら敬礼する小さな姿を探すように。

此処に、おります。

窓の向こうの烈しい半夏雨が、季節の到来を教えている。

四度目の夏、そしてやがて五度目の秋。

「いつまでも」

囁いたチェ・ヨンは後手に、私室の扉を静かに閉じた。

 

 

【 半夏雨 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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