「大護軍!」
皇宮の外れの仁徳殿、外構えの門へ走り寄る。
門前に焚いた篝火が強い雨に揺れている。
雨避けの外套の下にこの顔を見た衛兵が、姿勢を正し交叉して門を塞いだ鉄杖を泥濘の地面へ突き降ろす。
「中にいるか」
「はい!」
吠え声の合間をくぐり抜け、門中へ飛び込む。
稲妻が照らし出す仁徳殿の影が暗闇の中に浮かび上がる。
出入り口に立つ兵が投げかける視線の中、庭の様子を確かめる。
木々にも兵にも問題はないだろう。落雷を受けた様子もない。これなら逃げ出す隙は無い。
初めてようやく少し安堵して歩を緩め殿の入口へ進む俺に、護りの衛兵が頭を下げた。
「チェ・ヨン殿」
「遍照」
薄暗い廊下から雷光に照らし出され、濡れそぼり滴を垂らす俺に眼を当てて、入口で出迎えた遍照が頭を下げる。
「徳興君媽媽は御無事です」
「媽媽ではない」
「失礼しました」
顔色を変える事も無く、奴は穏やかに頭を下げて見せた。
芝居だと己に言い聞かせ、奴に先導され短い廊下を進む。
行き止まりの鋼格子は、雷鳴の中でも静まり返っている。
生の気配が全く無い。
石壁で厚く囲うたからか、響く雷音も明らかに外よりも低く小さい。
「ナウリ」
鋼格子の前で呼ぶと、格子奥の黒い塊が動く。
高窓からの雷光を受け、ゆらりと立ちあがった影。
失った腕を隠すよう羽織った唐衣の上着。
元王族らしく肩まで長く垂らしている髪。
背後からの紫の雷光がその輪郭だけを浮かばせる。
逆光のせいで表情は見えん。しかし生きている者とは思えない
生気のない姿で、影は一歩ずつ格子の前に歩み寄る。
「チェ・ヨン」
「大人しくお待ちですか」
「わざわざそれを確かめに来たか」
「ええ」
「余程私が怖いと見える」
下らない駆け引きに鼻で哂う。
怖いのは雷如きでお前を死なせる事だ。この俺でなく春雷がお前の命を奪う事だ。
あの方は今、俺の側にいる。それさえ知っていれば愚かな鼠の挑発に乗る価値は無い。
「親鞠の命が下るまで、暫し」
怒りに震えるか、つまらん虚勢を張るか。
敢えてそう挑発し返すと、奴は不思議な顔をした。
予想したよりも穏やかな顔のまま息を吐き、確かにその目で瞬時、格子越しの俺でなく遍照へと目配せをしたのだ。
「まあ良い。王様のお越しをお待ちするとしよう」
そしてもっと厭な事に遍照はその目を受けほんの僅か、俺ですらともすれば見過ごす程僅かに頷いて見せた。
「遍照」
短い話を終え、廊下を入口と戻りつつ声を掛ける。
「はい、チェ・ヨン殿」
「何か伝える事は」
「・・・万事計画通りに、というところです」
これ程抑えた互いの、まるで息だけで囁き交わす声が確りと聞こえるという事は。
初めて気づき、廊下の窓外を見る。春雷が通り過ぎたのだと。
「信頼は深まっております。第一あの男は」
遍照は息をひそめたまま、隠しようがない程に愉し気に呟く。
「私がいなければ何も出来ません。身支度は疎か飯の準備も、厠を使う事すらも」
「怪しい気配は」
「今の処、外とは一切繋ぎを取っておりません。来訪者どころか文も差し入れも、鳥一羽飛んで来ません」
「判った」
この男を信じて良いか。それとも己の勘が外れたか。
あの目配せは何だったのか。
この男の計略か。それとも俺の知らぬ何かが起きたか。
ただ最後にこの男の目を見ると、不思議な思いに捉われる。
その目の中に僧にしては雄弁すぎる、この男が肚に抱えた言葉よりも余程雄弁な何かが込められている気がする。
信じて下さい。その一言が。
短い廊下の逆の突き当り、出入りの格子の前で頭を下げ遍照が告げる。
「それではチェ・ヨン殿、道中お気をつけて」
「ああ」
衛兵が錠を開けた鋼扉を、この足だけが踏み出る。
扉越しに振り返れば薄暗い廊下で半ば陰に隠れ、遍照が此方を見ている。
こうして見れば、この男とて獄に捉われた鼠と大差無い。
二つ返事で獄へ赴いた男。その道へ引き込んだ己。
この鋼扉が閉まれば奴と共にその獄内に閉じ込められる。
違うとすれば鼠が息絶えればこの男は自由になれる、それだけだ。
「ではな」
「はい」
最後の声が合図かのように鋼扉がゆっくりと閉められた。
仁徳殿を出れば春雷は既に遠ざかり、東の空を光らせる。
この後禁軍、そして官軍の報告を聞けば終わるだろう。
足許の泥濘を遠慮なく散らしつつ、康安殿へと駆け戻る。
この後は日に日に花が咲き開く。
朝は早くなり日暮れは遅くなり、空は霞み風は温くなる。
この雷が春の訪れを告げる嵐だ。
あの方と共に春野へ草摘みに。敬姫様と交わした約束を違える訳にはいかぬだろう。
そして今康安殿へと戻れば、王様の御側には王妃媽媽が穏やかな御顔で座っていらっしゃるだろう。
全てが上手く行っている。
鼠は繋がれ、奇皇后は鳴りを潜め、あの方は典医寺で俺の戻りを待っている。
上手く行っている筈なのに、何がこれ程に居心地悪い。
あの方に聞いたシンドンという男の話の所為か。遍照がその男だという証拠は何一つないのに。
起きた時に考える。それまでは全て杞憂だ。
相手は生きた人間だ。変わるなと言って聞き届けるでもない。
真暗に暮れた小雨の道を急ぎながら、雨の匂いを嗅ぐ。
冬の氷雨とは明らかに違う温かさを胸へ吸い込み、もう白い雲のようにはならない息を深く吐く。
あの方が待っている。
ただそれだけを闇の中、まじないのように唱えて走る。
春が来る。 今確かに分かっているのはそれだけだ。
【 春花摘 | 春雷 ~ Fin ~ 】

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不気味です。ドキドキします。闇な引き込まれでいくようで…
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ヨンお疲れ様でした
会いたくもない奴の 姿も見ちゃったし
嫌ですね~
でも でも
春はすぐそこに…
ウンスと 春を迎えましょうね
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遍照・・・
この名前を見るだけで怖くて
不安で、息苦しくて胸が痛いです。
それほど
さらんさんのお話は素晴らしいです❤
もうそろそろ、本編が始まるのでしょうか?
楽しみにしてます~❤