雲雨巫山 | 廿壱

 

 

「ああ、お腹いっぱい」

予定通りに入った邑外れの旅籠。
卓上へ箸を戻したこの方が小さな両手を音高く合わせた。
「ご馳走さまでした!」

その細い腹の一体何処へ収まるのか。そして収まった後、どんな具合になるのか。
この方は本当に美味そうによく喰い、だが柔らかく平らな腹が膨れているのも見た事がない。

ゆったりとした静かな時。鉄原の外れにしては今夜はまだ温かい方だ。
互いに一日の埃を洗い落とし、夕餉を終え、ふと気紛れのよう座を立ったこの方が部屋の中を進む。
そして庭へと面した扉を押し開き、吹き込んだ風に肩を竦めた。

「寒いでしょう」
声に首を振り、この方は庭の向こうに星空を見る。
「星がすっごくきれいよ、ヨンア」

まだこの寒さに慣れておらぬだろう。
息を吐き、鞍から下して部屋隅に積んだ荷から毛織物を取る。
広げたそれで後ろからぐるりと包み、そのまま腕に閉じ込める。

小さな背がこの胸へと凭れる重みを支えつつ、閉じ込めた腕の中静かに繰り返す息を聞く。
「空が澄んでるのかな。開京とは違うわね」
腕の中から夜空を瞳に映し、この方は不思議そうに呟いた。
「寒さと風のせいです」
「なるほどね、ガスや雲が強風で飛ぶってことよね。湿度が低いことも関係するのかも」
「がす」
「ああ、うーん。この時代なら大気汚染なんてないし。そうねー、 空の曇りのもと?」
「はい」

端を削がれた十八夜の月が、他愛無い言葉を交わす俺達を照らす。

「ねえ、ヨンア」
「はい」
「今、私すっごく幸せよ」
この方はそう言って、背からその細い肩を閉じ込めたこの両腕に折れそうに細い指を掛けて握る。
まるで幼子が親の手を探して握るように。決して迷わぬようにと縋るように。

そんな風に握らずとも、二度と手を離したりはせん。
そんな風に探さずとも、この指があなたを探すから。
それでも不安ならば、いつでも伝える。幾度でも教えて頂いた言葉を幾度でも。
「愛している」

背後から耳元で小さく伝えた短い言葉。
天界のこの言葉が全てを伝えてくれる。
そしてその声に、腕の中の肩が震える。

「ヨンア、知ってる?」
「・・・何をですか」
「今までねえ、私が最初に言うことの方が多かったの」

天界の言の葉。そうだったろうかと記憶を辿る。
心から伝えた事しか無い。ただ溢れる度に口にした。
何方が先になどと考えてもみなかった。

「憶えておりません」
「そうよね、きっとそう言うだろうって思った」
「後先も大切ですか」
「ううん、これは現代人独特のゲーム根性。まだしみついてる、心のどこかに。イヤらしいわね」
「げーむ」

あの頃慶昌君媽媽におっしゃった。げーむ。
「天界の遊びですか」
「え?」
この方が腕の中で振り返る。
「慶昌君媽媽におっしゃった事がある。げーむと」
「ああ、よく覚えてるのね。うーん、恋愛ゲームっていうのはまたあの時媽媽にお伝えしたのとは、ちょっと違うかな」

訊けば訊くほどに頭が縺れる。
天界にはそれ程多くのげーむがあるという事か。

俺の不得要領な顔を腕の中から見つめ、堪え切れなくなったか。
この方が楽しそうに小さな息で笑った。
「ヨンア、分かんないって顔してる」
「はい」

判らぬものを正直に答えると、その瞳が三日月を描く。
今宵の空に浮かぶものより、余程くっきりとした月を。
「私も見習わなきゃ。あなたみたいなまっすぐな声。ねえ、もう一回言って?」
「・・・愛している」

不安ならば、幾度でも繰り返す。
この言葉には何一つ嘘など無い。
「まっすぐな瞳も、まっすぐな心も、生き方も。あなたって」

この腕に縋っていた小さな手がひとつ、この頬へとゆっくりと伸びて来る。

「あなたって本当に、本当にチェ・ヨンだわ」
「・・・ええ」
この方の声の意味が判らずに首を傾げる。それはそうだ。
少なくとも同じ名の男に今まで遭った事は無い。

「分かんないでしょ」
「・・・はい」
「だからあなたらしいのよ。いつかきっと分かるわ」

この方は庭へ向き直ると、もう一度腕の中で居場所を見つけるように小さく身を捩る。
場所を見つけるこの方の為に腕を拡げ、思い立ちそのまま両掌でその腹を撫でてみる。

「・・・ちょっと、なあに?」
問い掛けに答えずに腹を撫でまわす掌に、この方が苛りの声を上げた。
「やだ、もしかして太ったぞって無言のアピール?」
「いえ」

あぴーるが何かは知らんが、腹が出ないのは不思議だ。
胸高に締めた帯の所為かと思ったが、それでもこうして触れても全く段差を感じん。
「ちょっと、ほんとに怒るわよヨンア!女性のお腹を撫でるのはダメだってば!」
「あの飯は」
「はい?」
「あれ程喰って、何処へ」

口にしてみると尚更に不思議だ。
俺の声に呆れたか、この方は息を吐いてこの手首を掴むとそのまま此方へ体ごと向き直った。
「さあね、しっかりお肉になってウエスト辺りにくっついてるわ。でもここでは先の世界より歩いてるし、食事内容も違うから」

この方を娶るまで、ただ抱き締めるだけだった。
それでもその身の稜線はこの腕が、胸が、肩が覚えている。
その時と全く変わっておらぬのだから、贅肉になった事も無い。

「全く、変なとこにばっかり気がつくんだから」
「変では」
この方が可笑しそうに言って、細い両腕で俺を抱き締める。
こうして不思議な事が増えていく。婚儀を挙げて日が経つ程に。
知っていく。この腕の中のあなたを。日毎に新しいあなたを。

俺達の今世の螺旋は描かれ始めたばかりだ。
そんな新しい俺達を、懐かしい故郷の月と星が照らしている。

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3 件のコメント

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    まだまだ ウンスの知らないとことばかり?
    不思議なところも魅力の一つ
    お腹を撫でちゃう ヨン…
    よからぬこと? かと思えば
    消えた食事の行方…
    ウンスは 体型の事かと…
    なんだかかみ合わないようで
    ほのぼの 甘いあま~い 新婚さんトークね

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    さらんさん~
    ほんわかと温かい気持ちになる
    二人の甘い会話❤
    良いですね~~(*^^*)
    私も、チング達から「痩せの大食い」と言われておりますが・・
    食した後は、見るも無惨に胃も腹も
    ポッコリと出ております(^^;
    ウンスが羨ましい~です(笑)

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    何かが起こるわけでも無く、ただゆっくりと穏やかに過ぎて行く時間の中で、夫婦になった二人のあるがままの姿。
    拝読しながら情景が目に浮かびこちらまで穏やかな気持ちになります。
    昨日今日と仕事に追われミノが足りない、ヨンが足りないと不満をつのらせていたこの心が満たされました。
    さらんさんどうも有難う御座います。

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