雲雨巫山 | 伍

 

 

「ヨンア、寝た?」

懐かしい部屋に並べて延べた床の上、胸に寄り添うこの方の細い肩へ腕を廻していた。
廻した腕の先、指を掠める亜麻色の髪はいつもと違う寝屋の薄闇の中、見慣れぬ色に光っている。

「・・・いいえ」
指先でその見慣れぬ色の髪をゆっくり梳きながら、腕の中のこの方へ首を振る。
「じゃあ、少し話してもいい?」
「はい」

俺の返答に嬉し気に咽喉元へ寄る、触れ慣れた温かい息に笑みが浮かぶ。
「ここがあなたの部屋だったのね?」
「はい」
「懐かしいでしょ」
「ええ」

十六で父上が亡くなるまで、ずっと使っていた部屋だ。
此処を出て以来、初めて使うのだと思い出す。
「十六年振りです」
俺の呟きに、腕の中のこの方が目を丸くする。
「ずっと戻ってなかったの?」
「はい」

足が遠のいていたのは本当だ。
宅を出て赤月隊へ、そして続いて迂達赤へ。
死ぬ日のみ数える俺が父上や母上の思い出の残る宅に戻るなど、考えもしなかった。

「・・・そうなの」
この方は静かに言って、温かい腕を俺へ廻した。
懐かしい部屋の布団の中、互いに腕を廻しあい、言葉もなく思いを馳せる。

あの頃の俺がもしも知っていたら、どうしただろう。

母上を亡くし、父上を亡くし、爺たちを残し出奔する。
師叔を亡くし、仲間たちを亡くし、赤月隊は解隊する。
三人の王に仕え、その王命で天界に行きこの方を攫う。
此処を飛び出て十六年後。婚儀を挙げ、愛しい妻とこの部屋で床を並べて眠る。

馬鹿にするなと一蹴するか。それとも鼻であしらうか。
何れにしても戯言だと、決して信じたりはせぬだろう。
独り低く笑う俺を不思議そうに見つめ、この方が腕の中から首を傾げて問うた。
「テグさんたちはこのおうちに来てもう長いの?」
「母を亡くし暫しの後ですから、二十年以上です」
「お父様がお元気なら、テグさんと同じくらいのお年?」
「いえ、爺の方が年嵩です」

或る日父上が杖を突いた爺たちを宅へと連れて来た時。
俺の目には爺の年すら見当もつかなかった。
「司憲部諌官の頃、大層世話になった方だ」

短く言うと父上はそのまま爺と細君、そして幼いシベクを、宅の離れへ住まわせた。

何と呼べば良いですか。
そう尋ねた俺に向かって地に膝をつき、俺に目を合わせ、爺は優しく言った。
「お父上より年寄りですから、爺と」

母上を亡くし、叔母上が忙しさの余り足の遠退きがちな宅で、それは父上の俺への思い遣りだったのか。
それとも当時既にかなり目を悪くしていた爺は、本当に父上が司憲部諌官だった頃、世話になったのか。

己が問い質す事も無く、父上も爺も何も言う事は無かった。
ただ何も言わず、問わずに共に居た。
叔母上の手が届かなくなった処は爺と細君が補ってくれた。
そしてシベクは俺にとり、良き遊び相手となってくれた。

ただ父上に対し何処までも主への忠誠を崩さぬ爺の態度が、幼心にひたすらに不思議だった。
シベクと俺が親し気に肩を並べようものなら、当時まだ若かった爺は、烈火の如くシベクを叱り飛ばした。

父上が亡くなって初めて知った。
司憲部諌官だった頃、爺が官婢として皇宮に仕えていた事。
視界の衰えを理由に皇宮から打ち捨てられた爺と家族を、父上が宅へ半ば強引に連れて来た事。

「旦那様に御言葉を頂きました」
父上の葬儀を終えた後、爺は静かに言った。
「あなたの名は奴婢ではない。テグという名があると。自分に誓って、二度と奴婢とは名乗るなと」

懐かしい、父上らしい物言いだと、心から思った。
「お屋敷を守って欲しいと言って頂きました。そして若様の前で絶対に、己の身分で遠慮するなと。
家人として若様が 正しい時にはよく褒め、もしも誤った時は厳しく叱れと」

訥々と告白を続ける爺の頬、霞んで見えぬであろう両目から滂沱の涙が伝っていた。
「あれほどの方が亡くなって、この老い耄れが残るなど」

父上の葬儀、そして七七日忌を終えた俺が師叔について出奔し。
宅へ寄り付く事すらもなくなった後も、爺が宅を守ってくれた。
あの頃には己の心の傷しか見えず、喪った父上の大きさの陰で大切なものを幾つも見落とした。

爺の告白もまた、喪った父上への哀悼を募らせるだけだった。
爺には細君が、そしてシベクがいた。
その温かさは、俺が既に永久に失った家族の風景だった。
俺をそんな風に見てくれる者がいる事など頭に無かった。

開いた眼で何も見えていなかったのは、他ならぬ己自身。

血だけではなく、他の絆が新たな家族を作る奇跡も稀にある。
俺はそれを知ろうとも、気付こうともせん愚か者だったのだ。

幼い頃に見慣れた筈の見慣れぬ寝屋。
暖かい指先に触れられ、腕の中へと眸を戻す。

そこから見上げる瞳だけが、今の俺の真実だ。
間に木々を挟み、遠く離れた物陰から護ろうと。
睫の起こす風を感じる程の近くで見つめようと。
その瞳の中に、変わる事のない黒い眸が見える。

この瞳が俺に多くの新たな絆を作ってくれる。
俺は独りではない。この方が居てくれる限り。

其処に映る己は、実の己より清らかに見える。
それは、あなたが俺をそう見て下さるからだ。
決してそんな事は無い。それでも負けたくない。
あなたが瞳に映す己に負けてしまいたくはない。

その己を凌駕し、その己以上に傍に居たいと願う。
その瞳に映る己以上に、あなたを護りたいと乞う。
二度と悲しみの影で大切な者を見落とさんと誓う。
「イムジャ」

腕の中のあなたに呼び掛ける。
呼び慣れた筈の呼び慣れぬ名を舌に乗せる。
それはそう呼ぶ度、新しい想いが生まれるからだ。

「・・・イムジャ」
触れ慣れた筈の触れ慣れぬ長い髪に口づける。
触れる度に大切と知り、護りたいと思うからだ。

いつまでも慣れる事がない。
見慣れ、触れ慣れ、呼び慣れたと思う端から知る。
変わらぬものなど何一つない。全ては変わっていく。

俺の全ては此処から始まった。そして此処へ戻り来た。
俺達は前へ進んでいける。いつでも見慣れぬあなたが俺の横に居て下さる限り。
「ヨンア」

聞き慣れぬ声の響きで、あなたも新たな俺を知ったと判る。
そうしていつも知ってくれ。いつまでも慣れぬ俺を。

「愛してる、ヨンア」
初めて耳に届いた時から幾度も重ねられた天界の言の葉。
新しく響くのは、あなたの新たな想いが重なるからだ。
そうしていつも見せてくれ。いつでも新たなあなたを。
そして信じてくれ。未来永劫に変わらぬ俺の心を。

俺にとっては懐かしい、そしてこの方にとっては初めての寝屋。
俺達は互いを抱き締め合い、また二人の初めての思い出を作る。

 

 

 

 

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3 件のコメント

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    テグさんとの 
    はじまり~ そして思い出か…
    さみしい思いでが
    多い多いけど ウンスが居るもの
    きっと それは変わっていくのでしょうね~
    ウンスとともにいる居る幸せ…

  • SECRET: 0
    PASS:
    さらんさん♥
    うっきゃ~!
    いつもながら、名文の数々が連なったお話をありがとうございます。
    「開いた眼で何も見えていなかったのは、他ならぬ己自身」…。
    うっきゃ~!
    ヨンが自戒するなら、私など見えぬ聞こえぬ…言えぬの、まさに日光の三猿状態を詫びなければいけない毎日ですよ…(iДi)。
    幼い頃に過ごした部屋で床を並べる二人…、ヨンにとっては天井の節目も書棚の書物も、懐かしさとともに新しい発見にも繋がるかもしれませんね。
    互いに一人で朝を待つ 気が遠くなるほどの日々を重ねてきた二人にとっては、「朝が来ずとも良い」と思えるこんな夜は、誰よりも貴重だと感じているような気がします。
    さらんさん。
    今宵も素敵なお話をありがとうございます。
    温かくしてゆっくりおやすみくださいね。

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