雲雨巫山 | 捌

 

 

「ヨーンア」
二頭駆けの馬の鞍上、俺の横から明るい声が掛かる。
「どうしたの?気分悪い?」
「・・・いえ」

強張った作り笑いを浮かべるのは、ただこの方に余計な心配をして欲しくない余りだ。
宅門を出てから口を開かぬ俺に、明るい笑みが雲って行く。
「ちょっと止めて」
「イムジャ」
「いいから止めて、ちょっとだけ」

言い張る声に負け、チュホンの手綱を絞って止める。
愛馬はすぐに脚を止め、俺へと耳を向け気配を探る。
お前が誰より分かっているのかもな。
その首をゆっくり掌で撫で、俺は鞍から横のあなたを見る。
「降りますか」
「うん」

チュホンの鞍から降りて支える前に、この方は危なかしくご自身一人で鞍を降り、此方へ寄った。

秋の風の吹き渡る野道、菩提寺は目と鼻の先だ。
陽はまだ東空に低く、寒い鉄原で遮るものない秋風は冷た過ぎる。

チュホンの鞍に巻いて据えていた毛織物を取り、指先で広げると小さな頭から巻きつける。
「寒くはないですか」
「ありがとう。寒くはない、けど」

その温かい指が俺の額に触れ、頬に触れ、この頸の血脈を確かめる。
そして最後にこの手首の脈を読み、ゆっくりと離れる。

「うん、大丈夫。少なくとも体はね。でも」
この心の臓を読んだ指だけでなく、今度は巻きつけた織物ごと、細い両腕が俺の腹から背へ回る。
そして此方を見上げつつ、明るい作り声が上がる。
「七情鬱血。ストレスが溜まっていませんか?チェ・ヨンさん。専属主治医の優秀な目はごまかせないわよ」

この方が軽口を叩くのは、不安の裏返しだ。
己の口は重さを増し、その分あなたの口が言の葉を紡ぐ。

イムジャ。真偽はまだ判らん。だから今まだあなたに言えん。
本当に崔家の墓所にメヒが入っているなら、許したのは誰だ。
理由は何だ。そしてこの方にどう伝える。

答など出ん。行って知るしかない。
しかしこの方を伴って行くのは辛い。
この方の涙を、あれほど愉しみにしていた婚儀の旅で見るのは。
そして俺達の重ねて行く刻の中、この旅が悪い記憶になるのが。
二人で思い出話をする度に、禁忌のように避ける話になるのも。

これほど愛している方を、何故幾度も傷つけようとする。
一度は俺を想ってくれたなら、静かに幕を引いてくれよ。
お前にしてやれる事はそれしかないんだ。
俺はもう、お前を思い出す事も出来ない。

目を閉じてももう浮かばないんだ。その髪や目の色しか。
ぼんやりした影しか思い出せない。
ただ好きだった。本当に家族のように妹のように愛した。
守りたいと思った気持ちに嘘はない。

だけど目を閉じれば、今そこに見えるのはお前じゃない。

判ってくれと思うのは我儘か。
退いてくれと頼むのは傲慢か。

それでもメヒ。
もしもお前が今もう一度ここに現れても、俺は必ずこの方の温かい手を選び取る。
それが運命だ。
この方は生きている。誰より暖かく輝いて。
生きるには程遠かった俺を強引に引張って教えてくれた。
此方へ来いと、いつでも明るい温かい道を示してくれる。

この方は昏い道へと堕ちようとはしない。
まして俺を道連れになど、考えもしない。
もしも最後にそうなったら細い腕で俺を突き飛ばし、明るい処に残して、そして自分だけが落ちる方だ。

だから駄目なんだ。俺でなくては駄目だ。
そうでないとこの方が泣きながら呼び続ける破目になる。

そこに、いる?
あの声を聞くなんて、俺には二度と耐えられない。
此処におります。
離れて答えるのではなく、誰より側で伝えてやる。
それが俺の選んだ道だから、お前を思い出せなくなった。
俺を信じるこの方がいたから、もう一度生きると誓った。

頼むからもう邪魔しないでくれ。
俺も今、静かに眠るお前の邪魔はしたくない。
最後にお前を憎むような真似をさせないでくれ。

こうして此処で立ち止まっていても、答は出ない。
「イムジャ」
「なぁに?」

冷たい風の抜ける野道で呼び掛ける。
「信じてくれ」

風が背の高い秋草を、この方の羽織る毛織物を、亜麻色の長い髪を、二頭の馬たちの鬣を、尾を揺らして過ぎていく。

「なあに、昨日の続き?」
「・・・そうかも知れません」
「さっきから様子が変なのは、それが理由なの?」
「そうかも知れません」
「信じてるわ」

俺達の二つの声が、最後の秋風に乗って野を渡る。
この風にはすぐに雪が混じり、秋草の野が一面の銀雪に覆われる季節がやって来る。

「信じてる、だから大丈夫」

それでも俺にはこの暖かさがある。
二度と凍る事は無いと知っている。
立ち止まる暇は無い。全ては進んでいく。
戻る事は出来ず、戻りたいとも願わない。

お前がいた頃には戻れない。いや、戻りたくない。
この方を知る前のあの頃がどれ程倖せだったとしても、この方を知らなかった頃には二度と戻りたくない。

 

 

 

 

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4 件のコメント

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    ヨンは心配なのね~
    ウンスの反応が怖いねえ
    確かに怖い 泣くかしら 怒るかしら
    でもでも
    信じてくれって 言ってるじゃない 自分で。
    信じてあげようよ~ ウンスを!

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    さらんさん♥
    今宵も切ないお話をありがとうございます。
    複雑なヨンの心境…、ウンスはどこか敏感に嗅ぎ取っているのですね。
    そりゃあそうですよね、幸せの絶頂期とも言えるハネムーンの最中ですからねえ…。
    過去に愛した相手メヒとのこと、ヨンはウンスにどのように話すのか…、話さぬのか…。
    包み隠さず伝えることが、必ずしも「誠実」とは言えないですものね。
    楽しかった思い出も、辛い過去も、それがヨンとメヒの二人のものであれば、ウンスはそのまま触れずにおくことを選ぶんじゃないかなあ…などと、頼まれもしないのに、あれこれ考えながら、次回のお話を心待ちする私です(^_^;)。
    さらんさん。
    またまた風邪が流行ってきたようです(T_T)。
    くれぐれもお気をつけてくださいね。
    ドームでさらんさんのヨンベ達が待っていますよ~♥

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    正直に話したらウンスは理解してくれると思います。
    ヨンが今まで知らなかったのは気になるけど、
    実家に寄りつかなかったからじゃないかな。
    叔母様は知っている気がします。
    で、敢えてヨンには言わなかったのでは。
    ウンスに逢うまでは死んだように生きてきた訳だから
    これ以上思い煩って欲しくないと思って。
    ヨンに取り越し苦労だよ~って言ってあげたいです^^

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    メヒを崔家の墓所に弔ったのは?
    叔母さま?
    それともヨンのお父様の遺言?
    何にしてもウンスは大丈夫ですよね!
    さらんさん❤
    続きが待たれます(^^)

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